加藤泊治郎
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加藤 泊治郎 | |
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生誕 |
1887年6月8日 日本 山口県 |
死没 |
1951年2月19日(63歳没) ソビエト連邦 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1910 - 1945 |
最終階級 | 中将 |
加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6月8日 - 1951年(昭和26年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓、三隅。
経歴
[編集]山口県出身。三隅熊五郎の五男として生れ、加藤家の養子となる。山口中学校を経て、明治43年(1910年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し、長崎重砲大隊付となる。大正5年(1916年)8月、兵科を憲兵科に移し憲兵中尉となり、憲兵練習所で学んだ。 以後、名古屋憲兵、青島憲兵、豊橋憲兵、浜松憲兵、姫路憲兵、京都憲兵、台湾憲兵隊、牛込憲兵の各分隊長を歴任。昭和5年(1930年)8月、憲兵司令部員となり、さらに中国政府応聘、憲兵司令部第3課長、麹町憲兵分隊長、宇都宮・延吉・奉天の各憲兵隊長、関東憲兵隊司令部総務部長、東京憲兵隊長などを経て、昭和15年(1940年)8月、陸軍少将に進級した。
朝鮮憲兵隊司令官、憲兵司令部本部長、関東憲兵隊司令官、憲兵司令官、北支那派遣憲兵隊司令官兼北支那特別警備隊司令官などを歴任し、昭和18年(1943年)10月、陸軍中将となった。昭和20年(1945年)8月に東部軍管区兵務部長の発令を受けたが、終戦により赴任できず、朝鮮北部でソ連軍の捕虜となった。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[1]。昭和26年(1951年)2月、ウラジーミル監獄で病死した。