労之常
労之常 | |
---|---|
1921年刊行 | |
プロフィール | |
出生: |
1873年9月8日 [旧暦]同治12年甲戌7月17日[1] |
死去: |
1948年(民国37年)12月21日 中華民国北平特別市[2] |
出身地: | 清山東省陽信県 [1] |
職業: | 鉄道技師・建設官僚・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 勞之常 |
簡体字: | 劳之常 |
拼音: | Láo Zhīcháng |
ラテン字: | Lao Chih-ch’ang |
和名表記: | ろう しじょう |
発音転記: | ラオ・チーチャン |
労 之常(ろう しじょう、1873年9月8日 – 1948年12月21日)は、中華民国の鉄道技師・建設官僚・政治家。字は遜五。鉄道技師からの叩き上げで北京政府高官(交通部次長)となった人物で、呉佩孚との繋がりから直隷派と目された。後年、短期間ながら中華民国臨時政府でも任用された。
事績
[編集]1886年(光緒12年)頃に、労之常は天津武備学堂(北洋武備学堂)鉄路科に入学した[1]。卒業後は鉄道技師として活動し、清末は浙江鉄路局技師[3][4]などをつとめた。
1916年(民国5年)12月19日、労之常は交通部津浦鉄路管理局工務処処長に任命される。翌1917年(民国6年)3月12日には津浦鉄路管理局副局長となり、後に同局局長を一時代理している。1919年(民国8年)1月16日からは山東河務局局長に改任され、黄河流域の河川行政にも携わることになった[5]。
1922年(民国11年)5月28日、呉佩孚が中央で台頭した際に、呉から高恩洪・孫丹林らと共に抜擢され[3]、労之常は交通部次長代理(後に署理) に任命された。これと併せて魯案(山東問題)にも取り組むようになり、国際交通審査会会長、国際交通事務処処長、魯案善後交通委員会会長、統一郵権委員会委員長、魯案中日聯合委員会第二部委員を歴任し、同年12月6日には膠済鉄路の接収を担当している[5]。
1924年(民国13年)、労之常は京漢鉄路局長となるが、同年中に北京政変が発生して呉佩孚が一時失脚したため、労も各職を辞任した[3][6][7]。呉復権後の1926年(民国15年)7月22日、労は交通部次長兼京漢鉄路管理局局長に返り咲いたが[5]、中国国民党の北伐に敗北して呉が再び失脚すると、労もやはり下野した[3][6]。
その後の労之常は政界に復帰せず、基本的には北京や天津で閑居していた。ただ1936年(民国25年)5月には、冀察政務委員会交通委員会委員として一時的に政界復帰している[4]。1938年(民国27年)3月5日、中華民国臨時政府で新たに成立した山東省政府公署(省長:馬良)において、労は総務庁庁長に任命され[8]、同月26日には総務庁が廃止されたため秘書長に転じた[9]。しかし山東省政府からは短期間で離れ、4月12日、実務的な権限は無い行政委員会顧問に転じた[10]。これら以外では目立った政治活動が見受けられず、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会には労は参与しなかった。
日本敗戦後、労之常は漢奸に指名されることは無かったと見られる。北京で閑居し続け、引退した旧政界重鎮で構成される「耆英会」に参加したという。1948年(民国37年)12月21日、北京で病没。享年76(満75歳)[2]。
注
[編集]- ^ a b c 労(1988)、39頁。
- ^ a b 労(1988)、43頁。
- ^ a b c d 外務省情報部編(1928)、18頁。
- ^ a b 徐主編(2007)、2040頁。
- ^ a b c 中華民国政府官職資料庫「姓名:勞之常」
- ^ a b 尾崎監修(1940)、380頁。
- ^ 中華民国政府官職資料庫の検索では、この年における京漢鉄路局長就任に関する公報掲載が見当たらない。
- ^ 臨時政府令、令字第119号、民国27年3月5日(『政府公報』第7号、民国27年3月7日、2頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第160号、民国27年3月26日(『政府公報』第10号、民国27年3月28日、2頁)。
- ^ 臨時政府令、委字第66号、民国27年4月12日(『政府公報』第13号、民国27年4月18日、2頁)。
参考文献
[編集]- 労同慶「憶先父労之常」中国人民政治協商会議陽信県文史資料研究委員会『陽信文史資料 第3輯』1988年。39-44頁。※筆者の労同慶は、労之常の子にあたる。
- 外務省情報部編『現代支那人名鑑 改訂』外務省情報部、1928年。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 第十二巻』創元社、1940年。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。