勝小鹿
勝 小鹿 | |
---|---|
勝小鹿少佐(1881年頃) | |
生誕 | 1852年3月7日 |
死没 | 1892年2月8日(39歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1878年 - 1891年 |
最終階級 | 海軍少佐 |
子女 |
伊代子 婿養子:精 |
親族 |
勝海舟(父) 勝民子(母) 勝四郎(弟) 佐久間象山(義叔父) クララ・ホイットニー(義妹) 目賀田種太郎(義弟) |
墓所 | 青山霊園 |
勝 小鹿(かつ ころく、嘉永5年2月17日(1852年3月7日) - 明治25年(1892年)2月8日)は、日本の海軍軍人。初代海軍卿勝海舟の嫡男。幼名は小六。最終階級は海軍少佐。
生涯
[編集]江戸出身。慶応3年(1867年)9月、米国ラトガース大学留学[1]。明治4年(1871年)6月[2]、アナポリス(米海軍兵学校)に入校し[3]、翌年には海軍省留学生となる。明治10年(1877年)6月に卒業。イギリス・フランスを視察し[2]12月に帰国した。翌11年(1878年)1月に海軍大尉に任官するが、小鹿の海軍生活は健康に恵まれず、予備役となるまで病気による休職期間が長い。同年3月に海軍兵学校出動を命じられるも、病気療養が続いた。12月少佐へ進級。
明治13年(1880年)12月に兵学校練習船の「摂津艦」副長兼砲術課副課長に就任。乗員の指導にあたるが翌14年(1881年)4月には療養を願い出て、任を離れた[4]。明治17年(1884年)9月、調度局艦船営需用品取調掛長として復帰し、静岡県士族斎藤氏の妹と結婚。しかし翌18年(1885年)9月から病のため休職。12月に横須賀屯営副長となるが、明治19年(1886年)4月から病気引入となる。明治20年(1887年)1月、造船会議議員として復帰したが翌21年(1888年)11月に待命となり12月から休職。明治24年(1891年)7月に予備役編入となり翌25年(1892年)、39歳で死去。墓所は青山霊園(1イ4-22)
小鹿には男子がいなかったため、勝家は小鹿の長女・伊代子(1888年 - 1922年)に徳川慶喜の十男・精を婿として迎えた。精は明治32年(1899年)の海舟の死後、勝伯爵家を承継した[5]。
出典
[編集]- ^ 髙橋 秀悦「幕末・明治初期のアメリカ留学の経済学 : 「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助(2)」『東北学院大学経済学論集』第183巻、2014年12月、1-39頁、NAID 40020329074。
- ^ a b 「外入87 留学生岩本勝之助病死に付諸費并勝小鹿帰朝に付学資の件在英南領事申越他2件」
- ^ Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, MdU.S. Government Printing Office, 1872
- ^ 『海軍兵学校沿革』
- ^ 霞会館、P424。
参考文献
[編集]- 「外入87 留学生岩本勝之助病死に付諸費并勝小鹿帰朝に付学資の件在英南領事申越他2件」(ref:C09112800700)
- 「履入1446 勝少佐病気療養の件兵学校副申」(ref:C09113781300)
- 「丙4 鎮守府及兵学校所轄練習艦船を定む旨所轄ヘ達」(ref:C09114113900)
- 「結婚/19年3月23日 結婚願の件(海軍少佐勝小鹿)(ref:C10123883700)
- 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房
- 秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)、1939年
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
- 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。