勝川春英翁略伝の碑
成立日 | 10月 1825 |
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読み仮名 | かつかわしゅんえいおうりゃくでんのひ |
国 | 日本 |
位置する行政区画 | 向島 |
場所 | 長命寺 |
位置座標 | 35°43′4″N 139°48′32″E |
著者 | 石川雅望 |
作品または名前の言語 | 文語体 |
献呈先 | 勝川春英 |
勝川春英翁略伝の碑(かつかわしゅんえいおうりゃくでんのひ)とは、 浮世絵師の勝川春英を顕彰するために建てられた石碑のこと。東京都墨田区向島の長命寺に在る。
解説
[編集]文政8年(1825年)に勝川春英の七回忌が行われたが、このとき春英の門人たちによって江戸向島の長命寺に建てられた石碑で、今も長命寺の境内に伝存する。撰文は石川雅望によるが、春英の生年を「明和五年」(1768年)と誤っている(実際は宝暦12年〈1762年〉)。碑の裏面には勝川春徳をはじめとした春英の門人12人の名が刻まれている。
碑文
[編集]- 以下碑文の内容は『墨田区文化財調査報告書Ⅴ』に拠る。ただし碑表面は読みやすさを考え、原文にはない空白を適宜文章に設けた。
- 碑表面本文の 」 の記号は原文の改行を示す。
- 漢字の字体は現行のものに改めた。
碑表面
[編集][勝川春英翁略伝]久徳斎勝川春英翁は大江戸いつみ町の人なり 世に聞へたる絵師なることは人の知るところなれは」いはす 父は磯田次郎兵衛といひ母は某氏とか はやう勝川春章か弟子と成て それか氏を継ぬ 子二人」あり 女子はさきたちてうせぬ 男子斧二今世にあり 翁明和五年戊子にうまれて 文政二年己卯十月二十六日」 とし五十八にてみまかりぬ 浅草本願寺なる善照寺に墓あり 翁本性すなほにして錺ることをいみきらひて いつこへゆ」くにもけの服のまゝに出ぬ かくてはみくるし かさねてはうるはしき衣きて来給へと ありひかいふをきゝて 後の日又」かしこに至りぬ 出あへるものら うちたふれて笑ふことかきりなし 翁さるかくの女の装束を ことにきらきらしきを」うちきて まめたちてをりて みつからは をかしけともおもはぬけにありける ある時 日ころをすくして家にかへりきて」 とのかたに立ゐて いかに春英のやとりはこれかと たかやかにいふを 妻おとろきて戸をひきあけていれつ なにとていま」のほと きはきはしくはのたまへるといへは 日をへて帰りきたれは もし此家あたし人の物にやなりぬらん さら」は案内せてはあしからんと思ひて さはいひたるなりけりといらへき すへて翁のしはさ顧長康の風あり」と みな人はいひにけり おほかた江戸絵ととなへて木にゑりてすりたるもの 翁の右にいつるものなしと」そ北尾なにかしはいひたる 翁なくなりてことし七とせになりぬとて まなひをうけたる人々かたらひあは」せて かくさまの石をたてゝ おのれをして聊なるつるへことをしるさせつ あはれかゝる人のむそちにもたらて」 をはりをとりぬる かへすかへすをしみても をしむへきことなりかし
文政八年乙酉十月 石川雅望於六樹園書
碑裏面
[編集]参考文献
[編集]- 藤懸静也 『増訂浮世絵』 雄山閣、1946年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。135頁、103コマ目。
- 『墨田区文化財調査報告書Ⅴ -仮名交じり文の石碑(1)-』 墨田区教育委員会、1985年 ※93 - 95頁
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 「勝川春英翁略傳」の碑 ※すみだ文化財・地域資料 データベース
北緯35度43分4.4秒 東経139度48分31.7秒 / 北緯35.717889度 東経139.808806度座標: 北緯35度43分4.4秒 東経139度48分31.7秒 / 北緯35.717889度 東経139.808806度