勝福
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勝福 | |
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プロフィール | |
出生: | 不詳 |
死去: | 1919年(民国8年)12月14日 |
出身地: | 清内モンゴルフルンボイル(呼倫貝爾)ソロン(索倫)正黄旗 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 勝福 |
簡体字: | 胜福 |
拼音: | Shèngfú |
ラテン字: | Sheng-fu |
和名表記: | しょうふく |
発音転記: | ションフー |
勝福(しょうふく、シェンフ、繁体字: 勝福; 簡体字: 胜福; 繁体字: 勝福; 拼音: Shèngfú; ウェード式: Sheng-fu)は、清・モンゴルの政治家。ダウール人(達呼爾族)マルディン(莫爾丁)氏。甥は貴福。清末民初におけるフルンボイル独立運動の指導者である。
事績
[編集]清末にフルンボイル特旗総管を務めていた。清朝滅亡前後に勝福はロシアの支援を受け、フルンボイル独立運動を起こしている。1912年、勝福はハイラルと満州里を占拠し、清朝の官僚を駆逐して独立を宣言(ただし同時にモンゴルの朝貢国という扱い)、フルンボイル副都統を自称している。1915年(民国4年)10月、中露両国の間で結ばれたフルンボイルに関する協定に従い、フルンボイルは「特別区域」と位置づけられ、「高度な自治」を行うことになった。同年12月、北京政府から正式に副都統に任命、貝子に封じられた[1][2]。
しかし1917年の十月革命が勃発して以降、ロシアのフルンボイルへの支援が滞り始める。1919年(民国8年)12月14日には勝福が死去、甥の貴福が後継としてフルンボイル副都統代理に就任した。この機会に北京政府は貴福にフルンボイルの「高度な自治」を取り消すよう要求、翌1920年(民国9年)1月28日にロシアとの協定を破棄する形で特別区域を廃止した。ただし、それと引換えに貴福を正式に副都統に任命、貝子にも封じている[1][2]。
注
[編集]参考文献
[編集]- 王宋文「解開貴福之謎―也談在香山発現的貴福墓」2004年7月27日北京文博(北京市文物局ホームページ)
- 「第二節 内蒙古地区各地方官署」2011年4月14日内蒙古区情網(内蒙古自治区地方志編纂委員会弁公室ホームページ)