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北原兼正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北原兼正
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄5年6月3日1562年7月4日
別名 伊勢介
主君 北原氏
氏族 北原氏?
新助、又八郎
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北原 兼正(きたはら かねまさ)は、戦国時代武士北原氏の家臣。

略歴

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北原が姓であるが、その庶流であるかは不明。横川[1]地頭職及び横川城主を務めた。

永禄2年(1559年)、北原氏の家督と領地が伊東義祐に事実上簒奪されると、3年後の永禄5年(1562年)、北原旧臣の白坂下総介が北原家の再興を画策、守護島津貴久に協力を依頼する。更にこれへ北郷時久相良義陽が助勢したことにより、北原兼親を当主に北原家は再興され、飯野側[2]の北原旧臣である白坂兼頼(後の白坂昌棟)や大河平隆利らは、挙って兼親に従った。

しかし、兼正のみは従わず、島津貴久の再三の説得にも耳を貸さなかった。そのため、貴久は自らの三男である島津歳久を大将に任じて、横川城を攻撃させる。兼正は進退窮まり嫡子・新助と共に自害し、城も落城した。次男・又八郎は落ち延び伊東家臣となったようで、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いに伊東方として出陣し戦死している。

脚注

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  1. ^ 現・鹿児島県姶良郡
  2. ^ 加久藤盆地側。

出典

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  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
  • 『島津中興記』(青潮社1979年8月)
  • 『都城市史』 都城市史編さん委員会
  • 日向記』 (宮崎県史 叢書)