北条時俊 (時房流)
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 建武元年3月21日(1334年4月25日) |
別名 | 右馬助太郎(通称) |
官位 | 従五位下、安芸守 |
幕府 | 鎌倉幕府評定衆 |
主君 | 北条高時 |
氏族 | 北条氏 |
父母 | 父:北条清時 |
兄弟 | 時俊、時久、時藤、乗清、房朝 |
子 | 貞俊 |
北条 時俊(ほうじょう ときとし)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。
延慶3年(1310年)7月の時点で、評定衆に在職しており国政に参画した。後醍醐天皇らの討幕運動(元弘の乱)では幕府方の武将として出陣する。
大仏高直らと共に、河内金剛山の千早城に立て籠もっていた楠木正成を攻めていたが、足利高氏の離反や六波羅探題の滅亡もあって軍は四散した。時俊は反幕府勢力への抗戦を諦め、元弘3年(1333年)6月、般若寺で出家し降伏した。翌建武元年(1334年)、北条氏の残党らによる鎌倉侵攻事件などがあった影響から、北条氏一族の徹底的な殲滅が強められることになり、高直や、北条貞宗、北条治時、長崎高貞らと共に京都の阿弥陀峰で斬首に処された。(『太平記』巻十一「金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事」)
参考文献
[編集]- 『北条氏系譜人名辞典』(北条氏研究会 新人物往来社)
- 『尊卑分脈』(新訂 増補国史大系)