北谷恵祖事件
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この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2014年3月) |
北谷恵祖事件(ちゃたんえそじけん)とは、1667年、琉球王国の不祥事に薩摩藩が介入、処分した事件である。
1663年、清よりの冊封を受けた尚質王は、謝恩使として羽地朝秀の叔父で三司官の北谷親方朝暢(唐名は向国用)を派遣した。翌1664年、帰国の途に着いた北谷は福州に逗留する。同年、康熙帝即位の慶賀使として恵祖親方重孝(唐名は英常春)が派遣されたが、船は閩江河口付近で遭難した上に海賊に襲撃された。恵祖達は福州に逃れたが、献上品の金壺が盗まれ、随員の殺害事件が起こった。1665年、謝恩、慶賀使一同は帰国した。
ここで報告を受けた薩摩藩は、事態の解明に乗り出した。1666年6月と10月に関係者を薩摩に上国させ取り調べたところ、真相が明らかになった。
- 海賊とは、中国人に偽装した琉球人であった。
- 手引きをして進貢品を盗んだ船員上間らが、それを咎めた随員の喜屋武筑登之元持を殺し、その従者も殺した。
- 北谷親方は慶賀使に便乗して、家来を迎えによこさせた。
- 金壷を盗んだのは北谷の家来、与那城仁屋達であり、それを更に仲村渠仁屋が盗んだ。
- 同じく北谷家来の宮里子は仲村渠と手を組み、医師の休斎も引き入れて与那城を毒殺、金壷は現地で売り払った。
- それを知った別の船員が、宮里を脅して口止め料をせしめた。
- 家来の関与を知った北谷は、伊平屋島で関係者を下船させて揉み消しを図った。
1667年3月、薩摩藩は処分内容を通告する。北谷、恵祖は監督責任を問われ、北谷が家来を乗船させたのは勝手な振る舞いであり、恵祖は海賊から逃亡するとは臆病千万と、斬首を通告。更に両人の子弟8人を流刑。殺人、窃盗の関係者12人も罪状に応じて処刑、処分するというものであった。
薩摩藩は琉球への判決文に「異議あれば遠慮なく申し立てよ」と書き添えたが、王府は一切逆らうことなく5月21日に北谷、恵祖を処刑した。
参考文献
[編集]沖縄大百科事典、沖縄タイムス、1983年