コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

千波湖八景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

千波湖八景(せんばこはっけい)は、干拓される前の茨城県水戸市千波湖において、その景勝地を「八景」の様式にならって8つを選んだ風景評価の一つ。徳川光圀が制定したと案内されることが多い[1][2][3]。資料によっては"千波八景"[4][5]、"千波沼八景"[6]とも案内される。

概要

[編集]
千波湖の図(松平 1885)

かつて千波湖は、現在の3から4倍の面積を持っており、西に筑波山、湖面越しに水戸城吉田神社を望み、"新道"(又は"柳堤")と呼ばれる湖中の道が景観に風雅な装いを加えた、見所の多いところであった。そんなかつて眺められた千波湖の佳景を千波湖八景は伝えている。現代では、千波湖八景の景色は大正期から始まった干拓と周辺の市街化により、そのほとんどが失われている[2]。今は、千波湖の環境整備に取り組んでいる市民団体が千波湖畔の黄門像近くに設置した千波湖八景を案内する看板が、八景の存在を伝えている[7][注釈 1]

千波湖八景に関する最も古い史料は松平俊雄(松平雪江)の編・画による『常磐公園攬勝図誌』という1885年明治18年)に出版された偕楽園とその周辺の案内書である。これには"水戸義公曾てこの湖を回りて八勝を置る"の記述と、それに続く八景の名称の列挙の記述がなされている[2][7]。この記述から千波湖八景は徳川光圀(=水戸義公)が定めた、又は定めたと推測される、とする案内が多く見受けられる。光圀制定を案内する資料の中には、光圀が千波湖八景を制定した経緯として、中国の西湖の蘇堤を模して新道に柳を植えた光圀は、更に、西湖十景を模して千波湖八景を制定した、旨の記述をしているものがある[4]。一方、光圀制定説に対しては、八景のひとつ「七面山秋月」の"七面山"の呼称が始まったのは光圀の死後であり故に光圀制定とするのはおかしい、とする論もある[7]

八景の一覧

[編集]
千波湖の図/梅戸崎(松平 1885)
千波湖の図/柳堤(松平 1885)
千波湖の図/藤柄並木(松平 1885)

八景の一覧は以下のとおりである。案内する資料により名称の読みや、景色の解釈に若干違いがある。

七面山秋月
読み:しちめんさんのしゅうげつ[1]、しちめんざんのしゅうげつ[2]
七面山は今の偕楽園の好文亭辺りにあった山である[2]
神崎寺晩鐘
読み:かみさきじのばんしょう
神崎寺は現在も水戸市天王町にあるである。かって湖面はこの寺のすぐ近くまであった[2]。千波湖の南西部に浮かべた舟上から神崎寺を眺んだ景観と案内する資料もある[1]
梅戸夕照
読み:うめとのゆうしょう[1]、うめどのゆうしょう[2]
資料によっては"梅戸崎夕照"と呼んでいる[3][6]
かつて“梅戸崎”と呼ばれる岬が千波湖にはあり、千波大橋の市街よりの袂に見える切り立った崖がその名残である。"梅戸夕照"はその岬辺りから見た夕日の景観とする資料[3]と、梅戸橋(1984年時点)の付近から見た景観とする資料[2]がある。現在でも両地点付近からは壮麗な夕日を見ることができ、かつての佳景を偲ばせる。
下谷帰帆
読み:したやのきはん
「下谷」は旧町名の奈良屋町(現在の宮町3丁目)辺りのことを指す。かつては舟着場があった[2]
柳堤夜雨
読み:りゅうていのやう
柳堤は「新道」とも呼ばれていた、かつての千波湖の北東に存在していた、湖中に作られた土手道のことで、土手には柳が植えられていた。柳を植えたのは徳川光圀である[2]
藤柄晴嵐
読み:ふじがらのせいらん
吉田神社の東辺りは、かつて藤柄と呼ばれており、この地区の並木道の際まで湖面は迫っていた[2][5]。現代では埋め立てられている、かつての千波湖東側に浮かべた舟上から吉田神社及び松並木を眺めたものと案内する資料もある[1]
葑田落雁
読み:やぶたのらくがん[1]、ほうでんのらくがん[2]、かりたのらくがん[3][8]
"葑(ホウ)"は「マコモの根」の意味を持ち[9]、マコモの根が絡み合い積み重なった状態を"葑田"とし、"葑田落雁"が示す景観は場所は未定であるが千波湖周辺の湿地帯であろうと案内する資料がある[2]。一方、湿地帯があった場所を下市(水戸市の台町、紺屋町、藤柄町、檜物町、江戸町、七軒町、本、通、裡辺りは下市と呼ばれており、現在でも同界隈は下市の通称で地元では通じる[10]。)の町端とする資料もあり[3][8]、現在は埋め立てられてしまっている、かっての千波湖東側に浮かべた舟上からその町端を臨んだものと案内する資料もある[1]
緑岡暮雪
読み:みどりおかのぼせつ
"緑岡"は現在の水戸市見川町の護国神社徳川ミュージアム辺りの丘陵を指す[2]。千波湖の南西部に浮かべた舟上から眺んだ景観とする説もある[1]。千波湖との組合せた景観は、徳川斉昭水戸八景のひとつ「僊湖暮雪 (せんこのぼせつ)」でも称えている。

注釈

[編集]
  1. ^ この看板に載っている「千波湖周辺の公園と自然を愛する市民の会」制作の千波湖八景の地図と同じものが「SENBA LAKE OFFIAL WEB SITE」に掲載されている。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 茨城新聞社 2006, p. 32.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 常陽藝文 1984.
  3. ^ a b c d e 杢子 1970, pp. 66–68.
  4. ^ a b 鈴木 1990, p. 103.
  5. ^ a b 関 1970, pp. 260–263.
  6. ^ a b 柳生 1992, p. 64.
  7. ^ a b c 水戸桜川千本桜プロジェクト (2016年5月31日). “千波湖八景を見直す”. Facebook. 2016年12月12日閲覧。
  8. ^ a b 荻原 2000.
  9. ^ 諸橋轍次『大漢和辞典』 巻九、大修館書店、1967年、779頁。全国書誌番号:67002902 
  10. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 8(茨城県)、角川書店、1983年12月、493頁。全国書誌番号:84010171 

参考文献

[編集]
  • 「水面に県都の変遷を映す 千波湖(水戸市)周辺の今昔」『常陽藝文』第10巻、1984年3月。 
  • 茨城新聞社公告局企画開発部『移動寺子屋・千波湖号 かわら版総集誌 桜川・千波湖を通して身近な水環境について考えよう』国土交通省関東地方整備局霞ケ浦導水工事事務所、2006年。 
    • この冊子に載っている「千波湖周辺の公園と自然を愛する市民の会」制作の千波湖八景の地図と同じものが「ENBA LAKE OFFIAL WEB SITE」に掲載されている。
  • 鈴木一夫『水戸黄門紀行』保育社〈カラーブックス〉、1990年12月20日。ISBN 4-586-50804-3 
  • 関孤圓「周辺の名跡 千波湖」『水戸の心 梅と歴史に薫る』川又書店、1970年1月、260-263頁。 NCID BA61290167 
  • 松平俊雄『常磐公園攬勝図誌』 下巻(又は坤巻)、1885年。NDLJP:994510 
    • "千波湖八景"に関する記述は20コマ目にある
  • 荻原昭三「千波湖八景について」『ふるさと水戸のむかしばなし 研究ノート』水戸の歴史に親しむ会、2000年12月、28-31頁。 
    • 茨城県立図書館所蔵
  • 杢子朱明『みと 現時点でとらえた水戸の過去と将来』商業開発研究所水戸ぷろむなあど社、1970年。全国書誌番号:73005948 
  • 柳生四郎 編『茨城の八景』筑波書林〈ふるさと文庫〉、1992年11月。全国書誌番号:93029840 

外部リンク

[編集]