千秋万歳
千秋万歳(せんずまんざい)は、中世(12世紀 - 16世紀)期に存在した日本の民俗芸能、大道芸、門付芸の一種であり、およびそれを行う者である[1][2][3][4]。「せんじゅまんざい」[1][2]「せんしゅうまんざい」[3]とも読み、千寿万歳(せんずまんざい)とも表記する[5]。行う芸能者を千秋万歳法師(せんずまんざいほうし)とも呼ぶ[6]。新春の季語・1月の季語である[3]。
もともとは「せんしゅうばんぜい」と読み、「千年万年」つまり「永遠」を意味し、転じて長寿を祝う語であった[3]。これを語源とした予祝芸能となったものについて、本項で詳述する。
略歴・概要
[編集]現代にも続く踏歌節会の踏歌が源流である、とする説がある[2]。平安時代末期に勃興し、中世に大いに流行した[2]。2人1組で行う芸で、扇を持って舞う者と鼓で拍子をとる者がいた[5]。
11世紀半ば、1052年(永承7年)前後に成立したとされる『新猿楽記』で、藤原明衡が「千秋万歳之酒禱」(せんずまんざいのさかほがい)と記したのが、最古の記録という[1]。鎌倉時代(12世紀 - 14世紀)には、藤原定家の日記『明月記』(1180年 - 1235年)、広橋兼仲の日記『勘仲記』(1268年 - 1300年)にも「千秋万歳」についての記述がみられるという[1]。1275年(建治元年)に完成した辞書『名語記』による定義では、散所法師(さんじょほうし)が新春の初子の日(最初の子の日)に家々を訪ねて門付し、金品を得る芸であるとする[1]。
室町時代(14世紀 - 16世紀)には、寺に属しあるいは没落して民間に流れた職業芸人である「声聞師」(しょうもじ)が、新春の予祝芸能としの門付を行っていた[2]。15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、「絵解」(えとき)とともに「千秋万歳法師」として紹介されている[6]。この時代には、「声聞師」が旧暦正月五日に禁裏(御所)、旧暦正月七日には公方を訪れ、「千秋万歳」を演じ「曲舞」を舞った[1]。
戦国時代(16世紀)の宮廷では、陰陽道による正月の儀式は陰陽頭が行ったが、正月四日・五日には「千秋万歳の儀」があり、これを民間の芸能者である「声聞師」が行った[7]。グレゴリオ暦1570年2月8日にあたる元亀元年正月四日には、正親町天皇(第106代天皇)が、「声聞師」の行った「千秋万歳」と「大黒舞」を観覧した記録が残っている[8]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小山田了三 編著、本村猛能・角和博『江戸時代の職人尽彫物絵の研究 - 長崎市松ノ森神社所蔵』大塚清吾 撮影、東京電機大学出版局、1996年3月。ISBN 4501614307。
- 奥野高広『戦国時代の宮廷生活』続群書類従完成会、2004年2月。ISBN 4797107413。