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南方24号墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南方24号墳
墳丘・石室開口部
所属 南方古墳群(大貫支群)
所在地 宮崎県延岡市大貫町5丁目
位置 北緯32度34分15.63秒 東経131度38分54.15秒 / 北緯32.5710083度 東経131.6483750度 / 32.5710083; 131.6483750座標: 北緯32度34分15.63秒 東経131度38分54.15秒 / 北緯32.5710083度 東経131.6483750度 / 32.5710083; 131.6483750
形状 円墳
規模 直径21m
高さ4.2m
埋葬施設 両袖式横穴式石室
出土品 丸玉・鉄刀・鉄鏃・須恵器
史跡 国の史跡「南方古墳群」に包含
地図
南方24号墳の位置(宮崎県内)
南方24号墳
南方24号墳
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南方24号墳(みなみかたにじゅうよんごうふん)は、宮崎県延岡市大貫町にある古墳。形状は円墳南方古墳群(国の史跡、うち大貫支群)を構成する古墳の1つ。

概要

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宮崎県北部、延岡市街地西部の低丘陵(浄土寺山)上に築造された古墳である。古くは江戸時代に開口し、1913年大正2年)に鳥居龍蔵による調査が実施されている。

墳形は円形で、直径約21メートル・高さ4.2メートルを測る[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室である。単室構造の石室で、石室の石材には巨石を使用する。宮崎県北部では最大規模の石室であり、延岡市内の横穴式石室は本古墳と南方2号墳のみとして注目される。石室内は盗掘に遭っているが、大正2年の調査では鉄刀・鉄鏃・須恵器が検出されている。

古墳域は1943年昭和18年)に国の史跡に指定されている(史跡「南方古墳群」のうち)。現在では石室内への立ち入りは制限されている。

遺跡歴

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  • 江戸時代後期、延岡藩主内藤政韶が浄土寺山の古墳を調査(本古墳か)[2]
  • 1913年大正2年)、鳥居龍蔵による調査、鉄刀片1・鉄鏃2・須恵器の出土[1]
  • 1943年(昭和18年)9月8日、国の史跡に指定(史跡「南方古墳群」のうち)。
  • 1943年(昭和18年)、台風による石室入り口付近の崩壊[3]
  • 1978年(昭和53年)、墳丘・石室の修復・復元。鉄鏃片・丸玉1の出土[1]

埋葬施設

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石室俯瞰図
石室展開図

埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されている。玄室・羨道からなる単室構造の石室である。石室の規模は次の通り[3]

  • 玄室:長さ4.3メートル、幅1.58-2.13メートル、高さ2.20-2.52メートル
  • 羨道:長さ4.80メートル、幅0.93-1.37メートル、高さ1.30-1.57メートル

石室の石材には巨石が使用される。玄室の奥壁は2段積み。玄室の天井石は4枚、羨道の天井石は5枚。

石室内は盗掘に遭っているが、大正2年の調査では石室内から鉄刀片1・鉄鏃2・須恵器片(坏・甕)が検出されている[3][1]

脚注

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参考文献

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(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板(延岡市教育委員会、2012年設置)
  • 地方自治体発行
    • 史跡南方古墳群 保存管理計画書』延岡市教育委員会、1979年。  - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
    • 「南方古墳群」『延岡市史』 下巻、延岡市、1983年。 
    • 「南方古墳群」『宮崎県史』 資料編 考古2、宮崎県、1993年。 
  • 事典類
    • 「南方古墳群」『宮崎県の地名』平凡社日本歴史地名大系46〉、1997年。ISBN 4582490468 
    • 大塚初重「南方古墳群」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 
    • 南方古墳群」『国指定史跡ガイド』講談社  - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。

関連文献

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(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 鳥居龍蔵『上代の日向延岡』鳥居人類学研究所、1935年。 

関連項目

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外部リンク

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