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南詔

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南詔国から転送)
8世紀のアジア

南詔(なんしょう)は、8世紀半ば、中国西南部、雲南地方の洱海地区に勃興したチベット・ビルマ語族王国。最盛期には四川東南アジアにまで勢力を拡大した。

歴史

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前史

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雲南の地は古くから中国とインドを結ぶ西南シルクロードが通る重要な交通路であり、中国王朝の勢力は時に雲南を抑えることもあったが、必ずしも浸透していなかった。8世紀半ば、吐蕃の勢力がこの地方に南下して来ると、交易ルートの確保を巡ってと吐蕃の確執が起こった。

当時、雲南の洱海地区(現在の雲南省大理ペー族自治州)には六詔中国語版と呼ばれる政治権力があった。詔(チャオ)はを意味するタイ語「チャオ」[1]に関連すると考えられるが、彼らは烏蕃族[2]と呼ばれるチベット・ビルマ語族であった。六詔の最南部に位置する蒙舎詔は初代の細奴邏中国語版ベトナム語版7世紀半ばに唐に朝貢したことが記録されている。

建国

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第4代の皮羅閣中国語版ベトナム語版という者が唐朝の後押しを得て六詔の統一に成功する。738年に唐は皮羅閣を雲南王に冊封しており、この年を南詔建国と見ることができる。

蒙舎詔は六詔の南部にあったことから南詔と称したものである。皮羅閣はさらに滇池地区(現在の雲南省昆明市)にまで勢力を拡大し、雲南全体の統一に乗り出した。南詔の予想以上の勢力拡大によって、西南交易ルートを南詔に抑えられる形となった唐朝には面白いはずがなく、南詔は次第に唐と対立するようになった[3]

吐蕃との同盟

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そこで、南詔は雲南西北部に勢力を延ばしていた吐蕃と同盟し、752年閣羅鳳中国語版ベトナム語版は吐蕃の冊封を受け、兄弟の国として東帝の号を賜った。754年、唐の剣南留後(四川長官)が南詔を攻撃してきたが、吐蕃と南詔の連合軍に破られ、全軍覆没している。この時、唐軍の戦死者を葬った塚が天宝戦士塚として、今も大理市内に残っている。

その後、唐では安史の乱が起こったので、吐蕃と南詔は四川南部を攻略した。この頃、吐蕃は唐の都の長安(現在の陝西省西安市)を一時占領するほどの勢いであった。779年異牟尋中国語版ベトナム語版は、吐蕃・南詔連合軍20万の大軍をもって成都占領を目指したが、すでに国力を回復していた唐軍に撃退された。

この頃、南詔は羊苴咩城(現在の雲南省大理市)に遷都している。大理はこれ以降南詔・大理の定都となった。

唐との会盟

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唐朝は吐蕃の勢力を押さえるため、南詔を吐蕃から引き離す工作を進め、時の南詔王異牟尋は793年、帰唐の意を伝えた。翌年、唐の使者が南詔の都に到来し、洱海のほとり蒼山で会盟の儀式が行われた。当時、吐蕃は北方のウイグルとの戦いの最中であったので、異牟尋は吐蕃の神川都督府(現在の雲南省麗江市)を攻撃して占領した。これによって南詔と唐の関係は強固となり、南詔は成都に子弟を留学させるようになった。

最盛期

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9世紀以降、唐と吐蕃が国力を衰退させると、南詔は唐との同盟を翻し、829年勧豊祐中国語版ベトナム語版は長駆して成都を襲った。成都の外城を占領し、南詔軍は略奪の限りを尽くして引き上げた。その後、南詔軍は矛先を南に転じて、東南アジアビルマタイラオスカンボジアなどを攻め、海の見えるところにまで達したという。また、ビルマのピューの人々も南詔軍に襲われ、雲南地方に移住させられたという。

859年、時の南詔王世隆中国語版ベトナム語版はついに皇帝を自称し、国号大礼国と名乗った。翌年、南詔軍は中国領ベトナムを攻め、交州(ハノイ)の安南都護府を攻略、おりしも唐は黄巣反乱によってなすすべもなかった。

反乱軍に追われて成都に逃れていた唐の僖宗は、南詔を懐柔する必要に迫られ、883年に姉妹(父帝の子)の安化公主中国語版を南詔王隆舜中国語版ベトナム語版に降嫁させるつもりだったが、反乱が終息したため、実現しなかった。

滅亡

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しかし897年に隆舜も近臣に殺され、その子の舜化貞中国語版ベトナム語版が即位すると、権臣が専横を極め、王室の権力は形骸化する。さらに902年、舜化貞が死去すると、漢人の権臣の鄭買嗣中国語版ベトナム語版は舜化貞の子を殺害して宮廷クーデターを発動し、南詔蒙氏王室800人を殺害し、ここに10代164年続いた南詔は滅亡した。

滅亡後

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鄭買嗣は自ら皇帝に即位(大長和の聖祖)して新王朝の大長和(902年-928年)を開く。しかし、鄭買嗣の大長和も928年に滅亡。その後は大天興(興源国)(928年-929年)、大義寧 (929年-937年)の短命政権が続き、938年段思平によって大理国が樹立された。

歴代国王

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蒙舎詔

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南詔王

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大礼皇帝

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大封民皇帝

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脚注

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  1. ^ このタイ族哀牢国中国語版の末裔である。なお「チャオ」という言葉自体には、中国語の「主」の借用語であるとする説もある
  2. ^ 烏蕃族は、彝族の先祖と考えられている。
  3. ^ 蒙舎詔は9世紀のアラビア語史料『中国とインドの諸情報-第二の書』(邦訳p51)に「ムージャ」として若干の情報が記載されている

関連項目

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参考文献

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  • 家島彦一訳註『中国とインドの諸情報〈2〉第二の書』平凡社、2007年12月。ISBN 978-4582807691

外部リンク

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