南部利謹
南部利謹像(盛岡市教育委員会蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 延享3年8月16日(1746年9月30日) |
死没 | 文化11年11月19日(1814年12月30日) |
改名 | 嵩信、利謹 |
別名 | 通称:三郎 |
官位 | 従四位下信濃守 |
藩 | 陸奥盛岡藩世嗣 |
氏族 | 南部氏 |
父母 | 南部利雄、前田吉徳養女・弓 |
兄弟 | 利謹、栄姫 |
妻 |
黒田継高六女・麻姫 るん、於米之方 |
子 | 利済ら |
南部 利謹(なんぶ としのり)は、江戸時代中期の陸奥国盛岡藩の世嗣。通称は三郎。官位は従四位下・信濃守。
経歴
[編集]8代藩主・南部利雄の長男として誕生。母は前田吉徳養女(前田利章の長女)・弓。諱は嵩信、のち利謹。利雄の嫡子であり、盛岡藩嗣子となる。附役は用人の葛西正兵衛や伊東清作、下斗米小四郎が兼務する。
宝暦11年(1761年)2月15日、10代将軍・徳川家治に御目見する。同年12月18日、従五位下・信濃守に叙任する。安永3年(1774年)11月18日、公的には病気を理由に嫡子の地位を辞退する。実際には乱行を理由に廃嫡された。代わりに旗本であった分家の利正が父・利雄の養嗣子となる。廃嫡後は盛岡で生活する。
人物と廃嫡の理由
[編集]父の利雄が別名を「惣四郎様(そうしろうさま)」(家臣が進言すると何でも「そうしろ」と答えたという)と呼ばれたのと違い、文武両道で覇気のある人物であった。しかし、田沼意次に取り入り幕閣にのし上がろうと野望を抱き、本藩に知らせず独断で政界工作を行っていた事実が露見したため、これに驚いた父・利雄が幕府に「病気のため湯治させる」と申し出て盛岡に連れ戻し、利謹は廃嫡された。
側室の「るん」を溺愛し、るんの死後はその母親まで妾にするなど、常軌を逸した入れ込みようであった。その後「るん」に瓜二つであった町人の妻(於米之方、油御前)を強引に側室にした。
江戸住みの頃は、昼間から側室の部屋に入り浸り、情事にふけるなど、非常に好色であった。
また寛政2年(1790年)に盛岡藩を旅した高山彦九郎は領民から、若殿(利謹)に政務を批判された役人たちが讒言して押し込めた、という話を聞いたと記している[1]。なお、子の利済は父である利謹の諱の一字である「謹」を自身や子につけている。
系譜
[編集]- 父:南部利雄(1724-1780)
- 母:弓 - 前田吉徳養女、前田利章の長女
- 正室:麻姫 - 黒田継高の六女
- 側室:るん
- 側室:於米之方 - 清鏡院、石原氏。側室で利済生母である石原氏(清鏡院)は俗称「油御前」といわれる庶民出の女性で、塗師の寡婦であり、利謹の死後に聖寿寺に出家し、妙白尼と称した。
- 次男:南部利済(1797-1855)
脚注
[編集]- ^ 『高山彦九郎日記』第3巻P280-291参照
参考文献
[編集]- 「三百藩家臣人名事典 1」(新人物往来社)
- 「高山彦九郎日記」第3巻(西北出版、1978年)
- 「岩手県史 第五巻」
- 橋本博「改訂増補・大武鑑・中巻」(名著刊行会、1965年)
- 「三百藩藩主人名事典1」(新人物往来社)
- 佐々木京一「三閉伊一揆の底流 南部盛岡藩の権力闘争」(国書刊行会) 第3回森嘉兵衛賞受賞