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原口要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はらぐち かなめ

原口 要
原口要
生誕 嘉永4年5月25日[1]
1851年6月24日
日本の旗 日本 肥前国南高来郡西郷村
(現)長崎県雲仙市
死没 昭和2年1月23日
(1927-01-23) 1927年1月23日(75歳没))
東京市牛込区納戸町
墓地 青山墓地
国籍 日本の旗 日本
別名 原口龍水
出身校

大学南校開成学校

レンセラー工科大学
職業 技師
活動期間 明治、大正
時代 明治
雇用者 東京府,工部省
配偶者 はる 大村鋿太郞(鉄道省技師)姉
子供 三男:原口武夫(大蔵事務官)
長女:喜久代(大貫龍城妻)
二女:松代(宮澤源吉 妻)
進藤伊織
親戚 妻の妹ハマ:若尾虎治(陸軍中将)妻
妻の妹すゑ:志賀虎一郎(日本銀行)妻
栄誉 勲六等瑞宝章
勲五等瑞宝章
勲四等瑞宝章
勲三等瑞宝章
勲三等旭日中綬章
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原口 要(はらぐち かなめ、嘉永4年5月25日[1]1851年6月24日) - 昭和2年(1927年1月23日)は日本の鉄道技術者都市計画技術者、実業家。詩人。龍水と号して漢詩をよくした。

経歴

[編集]

嘉永4年(1851年)[1]肥前南高来郡西郷村島原藩士進藤伊織の三男として生まれる。明治2年(1869年)同藩士原口謙介の養子となる[2]。上京し、安井息軒のもとで漢学を修め。明治3年(1870年)から大学南校開成学校にまなぶ。明治8年(1875年)にレンセラー工科大学に留学し、卒業後はデラウエァア橋梁会社で橋梁工事を担当、その後ペンシルベニア鉄道会社に移り、鉄道建設を担当する。 明治13年(1880年)に帰国、東京府御用掛として、上下水道施設の整備改良、品川湾改修計画や鎧橋吾妻橋設計などを担当する。明治16年(1883年)からは工部省鉄道局技師を兼務し、鉄道技術者として各地の鉄道建設にかかわる。退官後は民間企業の取締役や、清国や台湾で鉄道顧問をつとめる。

  • 1870年明治3年)藩主の選抜で大学南校に入学し英学を修め、のち開成学校にすすむ。
  • 1975年(明治8年)文部省よりアメリカ留学を命ぜられ、レンセラー工科大学で学ぶ。
  • 1878年(明治11年)同校卒業後、デラウエァア橋梁会社に入社し橋梁工事を担当、その後ペンシルベニア鉄道会社の技師となり、フィラデルフィア付近の鉄道工事を担当する。
  • 1880年(明治13年)帰国し、東京府御用係となる。
  • 1883年(明治16年)4月17日 工部省少技長に任じられ新橋鉄道局建築課長。東京府と兼務する。[3][4]
  • 1884年(明治17年)
    • 5月14日 東京府土木監督を仰せ付けられる。[5]
    • 1月 日本鉄道会社の品川・赤羽間工事が開始され、そのうち品川・新宿間の工事を担当する(工事は明治18年3月1日完成)。[2]
  • 1885年(明治18年)1月23日 東京府市区改正審査委員に任命される(12月まで)。[6]
  • 1886年(明治19年)
    • 5月3日 鉄道二等技師となる。[7]
    • 7月 横浜・沼津間の測量および工事を担当する。[2][8] 
  • 1887年(明治20年)12月9日 設計した吾妻橋(台東区、隅田川)が開通する。[9]
  • 1888年(明治21年)
    • 4月7日 設計した鎧橋(中央区、日本橋川)が開通する。[10]
    • 7月 仙石貢の後を受けて甲武鉄道会社線新宿・八王子間工事を統理する。[2][11]
    • 10月30日 東京市区改正臨時委員に任命される。[12]
  • 1889年(明治22年)5月7日 工学博士の学位を授与される。日本で初めて工学博士となった5人のうちの1人。他に古市公威松本荘一郎志田林三郎長谷川芳之助がいる。[13]
  • 1890年(明治23年)10月9日 神戸建築課長兼汽車課長となる。[14]
  • 1891年(明治24年)6月20日 鉄道庁一等技師となる。[15]
  • 1892年(明治25年)8月18日 震災予防調査会臨時委員に任命される。[16]
  • 1893年(明治26年)11月10日 逓信省鉄道技師、鉄道局工務課長兼線路調査掛長を命ぜられる。[17][18]
  • 1894年(明治27年)
    • 6月25日 逓信省鉄道技監、鉄道局工務課長心得兼線路調査掛長となる。[19][20]
    • 11月15日 日清戦争の輸送業務のため広島に出張する。[21]
  • 1895年(明治28年)3月13日 大本営附を命ぜられ臨時鉄道隊の設計および事業監督を行う。[22]
  • 1896年(明治29年)
    • 4月16日 鉄道局建設部長兼工務課長心得となる。[23]
    • 6月19日 軌制調査委員会の主査委員として、広軌案の幅員と軌條重量を調査し、報告書を提出する。[24]
    • 9月22日 鉄道局工務課長心得を免じられる。[25]
    • 11月2日 広島宇品間軍用鉄道改良工事監督を命じられる。[26]
    • 12月3日 非職(休職)となる。[27]
  • 1897年(明治30年)
    • 5月 台湾の既設鉄道の払い下げを受けて経営する予定の台湾鉄道会社の設立委員から技師長として招聘される。(ただし会社は明治32年10月解散し、鉄道は総督府の経営と決定する)[28][29]
    • 8月18日 組織改革により、廃官(退職)となる。[30]
  • 1901年(明治34年)6月13日 設立された博多湾鉄道の取締役となる。[31]
  • 1904年(明治37年)5月16日 設立された帝国鉄道協会理事に就任する。[32]
  • 1906年(明治39年)
    • 1月 清国政府両湖総督張之洞の鉄路顧問となり、粤漢鉄路、川漢鉄路の両鉄道に従事する。[33][34]
    • 3月19日 博多湾鉄道取締役を辞任する。[35]
  • 1912年(明治45年)
    • 1月 中国革命動乱の際、孫文の招請により鉄道事業調査のため清国に渡る。[36]
    • 5月26日 帝国鉄道協会理事を退任する。[37]
  • 1912年大正元年)7月20日 富士製紙株式会社取締役に就任する。[38]
  • 1920年(大正9年)6月23日 帝国鉄道協会副会長に就任する(大正10年10月まで)。[39]
  • 1926年(大正15年)9月8日 神戸有馬電気鉄道監査役に就任する。
  • 1927年昭和2年)1月23日 病気のため自宅にて死去。27日青山斎場にて告別式、墓所は青山霊園[40]

栄典

[編集]
位階
勲章・その他

脚注

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  1. ^ a b c 『人事興信録 第4版』など、嘉永5年1月9日生まれとするものもある。
  2. ^ a b c d 日本交通協会編『鉄道先人録』日本停車場株式会社刊,1972年,pp.298-299
  3. ^ 「雑報」『朝日新聞』第2148号 大阪朝刊1面 明治16年4月22日
  4. ^ 鉄道省編『日本鉄道史 上』,鉄道省,1922年,p.88,p.169
  5. ^ 『官報』第262号「官庁彙報」明治17年5月16日
  6. ^ 『官報』第467号「官庁彙報」明治18年1月23日>
  7. ^ 『官報』第851号「叙任」明治19年5月6日
  8. ^ 鉄道省編『日本鉄道史上』,鉄道省,1922年,pp.800-801
  9. ^ 『官報』第1336号「彙報」明治20年12月10日
  10. ^ 『官報』第1428号「彙報」明治21年4月7日
  11. ^ 鉄道省編『日本鉄道史 上』,鉄道省,1922年,pp.800-801
  12. ^ 『官報』第1604号「叙任及辞令」明治21年11月1日
  13. ^ 『官報』第1454号「彙報」明治22年5月8日
  14. ^ 『官報』第2187号「叙任及辞令」明治23年10月11日
  15. ^ 『官報」第2393号「叙任及辞令」明治24年6月23日
  16. ^ 『官報』第1604号「叙任及辞令」明治25年8月19日
  17. ^ 『官報』第3113号「叙任及辞令」明治26年11月13日
  18. ^ 『官報」第3114号「辞令」明治26年11月14日
  19. ^ 『官報』第3297号「叙任及辞令」明治27年6月27日
  20. ^ 『官報」第3298号「叙任及辞令」明治27年6月28日
  21. ^ 『官報」第3418号「叙任及辞令」明治27年11月17日
  22. ^ 大本営より 鉄道技監並書記大本営付被命度件」 アジア歴史資料センター Ref.C06021928200 
  23. ^ 『官報』第3837号「叙任及辞令」明治29年4月17日
  24. ^ 鉄道省編『日本鉄道史 中』,鉄道省,1922年、p.792。
  25. ^ 『官報』第3972号「叙任及辞令」明治29年9月22日
  26. ^ 『官報」第4007号「叙任及辞令」明治29年11月5日
  27. ^ 『官報』第4030号「叙任及辞令」明治29年12月2日
  28. ^ 台湾総督府鉄道部編「私設鉄道」『台湾鉄道史・中』,1910年,pp.445-446
  29. ^ 台湾総督府鉄道部編「台湾鉄道会社」『台湾鉄道史・上』,1910年,p.279,472
  30. ^ 『官報』第4246号「叙任及辞令」明治30年8月26日
  31. ^ 『官報』第6154号「広告・商業登記」明治34年6月15日
  32. ^ 『官報』8678号「広告・法人登記」明治37年5月18日
  33. ^ 「清国の鉄道について」『好学雑誌(70),好学会,1909年,pp.1472-1474
  34. ^ 李 廷江「張之洞と日本人顧問原口要―粤漢・川漢鉄道をめぐる日中関係の一側面」,中央大学政策文化総合研究所年報(23),2020年,pp.115-141
  35. ^ 『官報』第6832号「広告・商業登記」明治39年4月12日
  36. ^ 清国革命動乱ノ際孫逸仙ノ招請ニ応シ鉄道事業調査ノ為渡清一件」 アジア歴史資料センター Ref.B04010977000 
  37. ^ 『官報」第8678号「広告・法人登記」明治45年6月18日
  38. ^ 『官報』第5号「広告・商業登記」大正元年8月5日
  39. ^ 「大正9年度業務報告」『帝國鉄道協會會報 22(4)』,帝国鉄道協会,1922年,p.174
  40. ^ 「広告」『朝日新聞』第14615号 東京朝刊6面 昭和2年1月26日
  41. ^ 『勅奏任官員録 明治17年7月改正』,文部省,1884年では従六位となっているが、叙位された日附は不明である。
  42. ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」明治19年7月10日。
  43. ^ 『官報』第2566号「叙任及辞令」明治25年1月22日。
  44. ^ 『官報』第3388号「叙任及辞令」明治27年10月11日。
  45. ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
  46. ^ a b 『官報』第24号「叙任及辞令」昭和2年1月28日。
  47. ^ 『官報』第1902号「叙任及辞令」明治22年10月30日。
  48. ^ 『官報』第2541号「彙報」明治23年12月17日
  49. ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」明治26年10月30日。
  50. ^ 『官報』第3593号「叙任及辞令」明治28年10月30日。
  51. ^ 『官報』第3950号附録 明治29年8月27日
  52. ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」昭和2年11月1日。