原貞胤
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時代 | 戦国時代、安土桃山時代、江戸時代 |
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生誕 | 弘治3年(1557年) |
死没 | 大坂の陣以降の不明日 |
官位 | 隼人佐(隼人佑) |
主君 | 武田信玄→勝頼→徳川家康 |
氏族 | 美濃土岐氏庶流原氏 (原氏 (土岐氏族)) |
父母 | 父:原昌胤 |
兄弟 | 昌栄、昌弘、貞胤 |
原 貞胤(はら さだたね、弘治3年(1557年) - 没年未詳)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。隼人佑。原氏 (土岐氏族)。
生涯
[編集]弘治3年(1557年)、武田晴信(武田信玄)の譜代家老である原昌胤の3男として生まれる。異説として昌胤の長男・昌栄の子という説もある。
天正8年(1580年)に兄の原昌栄が戦死したため、家督を継いで武田勝頼に仕え、父や兄と同じく隼人佑を称した。武田勝頼が甲斐新府城築城を開始した際、真田昌幸と共に奉行を務めている。天正10年(1582年)3月の織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、徳川家康の家臣となった。後に家康の命令で越前松平家の家臣となった。なお、『信長公記』では貞胤は高遠城において戦死したとしているが、その後も存命した記録があることが指摘される。
大坂冬の陣では松平忠直の麾下の黒幌衆として参戦。冬の陣と夏の陣の和議の間には、かつて真田昌幸と同僚だったことから親交もあった昌幸の次男・真田信繁(真田幸村)の説得を務める役目を担い、信繁の招きに応じて酒宴を開いたことが『武林雑話』で紹介されている。
慶長20年(1615年)、越前松平軍と信繁の軍は大坂夏の陣で正面から激突した。のち、越前軍の西尾宗次が討ち取った信繁の首実検を行った。
大坂の陣以降の死亡日は不明。
子孫は尾張藩士となった家系、秩父に土着した家系がある。