叙昆線
叙昆線 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 叙昆鐵路 |
簡体字: | 叙昆铁路 |
拼音: | Xùkūn Tiělù |
叙昆線は、滇越線の完成を受け、1905年から計画された、現在の昆明北駅から宜賓市を結ぶ865kmの鉄道計画の名称。最終的には1944年に沾益までの173kmが開通し昆沾線と改名、その後、1958年に大部分の路盤が貴昆線の一部として転用されたが、現在も一部が昆小線として残っている。2003年、かつての計画とほぼ同じルートをたどる内昆線が全通した。
経緯
[編集]1905年、滇越線がベトナムから昆明まで開通すると、次に、昆明から商業都市である叙府(現在の四川省宜賓市)を結ぶ計画が立案され、民間で建設資金380万両が集められたが、政変などにより計画は実行されなかった。
1938年(民国27年)に四川省及び雲南省国民党政府の合意により建設が決定、同年11月1日に滇越線の鉄道規格(軌間1,000mmのメーターゲージ)に準じて建設が開始された。当初の予定では、昆明から曲靖、宣威、威寧、彝良、大湾子、塩津県、安阜(現在の水富市)を経由して宜賓に至る予定であった。最小曲線半径164m(山岳部では115m)、最急勾配20‰(山岳部では25‰)。
1940年(民国29年)の日本の仏印進駐により、資材搬入が不可能となったが、その際に日本軍の進入を妨害するために破壊した滇越線のレール162km分を転用しての建設が継続された。
1942年(民国31年)、日本軍によるビルマ占領にともない滇緬線の建設が中断、1944年(民国33年)に沾益県に飛行場が設置されると米軍の空輸支援を受け、滇緬線のレールも転用しての建設が続けられた。1944年(民国33年)5月1日に昆明-沾益間の173Kmが開通、昆沾線と改名された。
戦後、昆沾線はメーターゲージ鉄道として活躍したが、1959年に貴昆線の建設が開始されると、昆沾線の大部分はメーターゲージから標準軌に改軌され、残りの部分は1970年までに撤去された。現在、昆明北駅から小石壩駅までの僅かな区間が、昆小線としてメーターゲージで残っている。