古河太四郎
古河 太四郎(ふるかわ たしろう、弘化2年3月20日[1](1845年4月26日) - 1907年12月26日[2])は、日本の教育者。姓は古川とも書く。
京都盲唖院(後の京都府立盲学校・京都府立聾学校)を創設し、近代日本での視覚障害教育・聴覚障害教育の黎明期をリードした。また、鷹峯・紅葉谷庭園の前身である灌漑池をつくった。
彼の没後30年に当たる1937年にはヘレン・ケラーが、彼の創設した聾唖学校を訪問している[3]。
略歴
[編集]京都に生まれる。1873年京都府待賢小学校算術教師となり[4]、同校において瘖唖教育に着手する。1877年には当時文部大書記官であった九鬼隆一の視察があり、その求めに応じて「京都府下大黒町待賢校瘖啞生教授手順概略」を執筆し、文部省出版の『教育雑誌』第64号附録として、公刊された[5][6]。1878年4月、京都府雇として学務課勤務[4]となる一方、同年5月に盲唖院を開校[7]し、8月には盲唖院に兼勤となる[4]。また1879年、京都府師範学校小学教授科を卒業[4]。1882年、京都府盲唖院長を命ぜられる[4]。1886年には京都府盲唖院長兼任のまま、文部属に任ぜられ[4]、翌1887年には東京盲唖学校教諭に任ぜられる[8]が、1889年11月に病気を理由に辞職を申し出、翌12月に免ぜられる[9]。1900年に私立大阪盲唖院長となる。1904年、ろう教育に対する功績により藍綬褒章を受章する[10]。1906年10月13日、華族会館で日本聾唖技芸会が主催する第1回全国聾唖大会が開催された際に、聾唖教育講演会も開催され、二つのテーマ「日本昔日の聾唖」「日本聾唖教育起因」を講演する[11][12]。同年10月23日、京都盲唖院長の鳥居嘉三郎、東京盲唖学校長の小西信八とともに盲唖学校と聾唖学校の設置の法規制定をうったえる建議を牧野伸顕文部大臣に提出[13]。没後の1913年に文部省図書局から『古川氏盲唖教育法』を発行[14]。
功績
[編集]- 1875年、彼が寺子屋の教師だった時代に、聾唖の生徒が日常的に使用していた手話に着目し、体系的な機能を持つ言語としての教授用の手話を考察した。この際に考案された指文字のような表現方法を取る「手勢(しかた)法」が現在、標準手話として制定されている日本手話の原型となっている[3][15][16][17]。
- 彼は聾唖教育を振り返った手記で以下のように述べており、 教育の重要性を語っている。
「 | ろうあ者は自由に行動すべきであるし、又、行動させないようにしてはいけない。そして、ろうあ者が教育を受けられないということを『不幸な出来事』と言うのではなく、寧ろ、教育をしない者の責任である。教育をキチンとやっていれば、ろうあ者だといって他人から軽蔑されることもないし、本人自身、恥ずかしがることではない。 | 」 |
—古河太四郎(東京人権啓発企業連絡会より) |
参考文献
[編集]- 伊藤政雄「古河太四郎と京都盲唖院」『歴史の中のろうあ者』近代出版、1998年、224-229頁。ISBN 4874026370。
- 岡本稲丸「研究 『古川氏盲啞教育法』について―古河太四郎とその教育」『ろう教育科学 : 聴覚障害児教育とその関連領域』第20巻第1号、ろう教育科学会、1978年、26-38頁、NCID AN0025560X。
- 岡本稲丸「復刻 明治十年十一月 古河太四郎識(教育雑誌第六十四号附録) 京都府下大黒町待賢校瘖啞生教授手順概略」『ろう教育科学 : 聴覚障害児教育とその関連領域』第22巻第1号、ろう教育科学会、1980年、3-78頁。
- 『盲聾教育八十年史「京都府下大黒町待賢校瘖啞生教授手順概略」』文部省、1958年、292頁。(NDLJP:9580533/163)
脚注
[編集]- 出典
- ^ 小西信八先生存稿刊行会 編「故古河太四郎君の略歴」『小西信八先生存稿集』小西信八先生存稿刊行会、1935年11月3日、103-109頁。NDLJP:1119496/59。
- ^ 東京聾唖学校 編『創立六十年史』東京聾唖学校、1935年10月30日、259頁。NDLJP:1452309/160。
- ^ a b 赤羽秀太 (2015年3月27日). “古河太四郎生誕より170年:日本初の手話考案者の功績とは”. ニュークラシック. 2015年3月27日閲覧。
- ^ a b c d e f “官吏進退・明治二十年官吏進退二十三・文部省三 文部属古河太四郎外一名学校教諭ニ任叙ノ件”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 国立公文書館 (1887年12月24日). 2023年11月13日閲覧。
- ^ 『文部省雜誌・教育雜誌目次類別』文部省、1882年、54頁。NDLJP:3463926/29。
- ^ 岡本稲丸 1980
- ^ 京都市学区調査会 編『京都市学区大観』京都市学区調査会、1937年8月1日、215-217頁。NDLJP:1440637/133。
- ^ 『官報』第1350号、明治20年12月27日、p.310.NDLJP:2944585/10
- ^ “官吏進退・明治二十二年官吏進退十一・文部省二 東京盲唖学校教諭古河太四郎依願免官ノ件”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 国立公文書館 (1889年12月3日). 2023年11月13日閲覧。
- ^ 『官報』第6408号、明治37年11月8日、pp.203-204.NDLJP:2949732/2
- ^ 聾唖月報社 編『聾唖年鑑 第1回版 昭和10年』聾唖月報社、1935年3月23日、764頁。NDLJP:1226860/442。
- ^ 川本宇之介『聾教育学精説』信楽会、1940年12月22日、140頁。NDLJP:1440192/89。
- ^ 東京聾唖学校 編『創立六十年史』東京聾唖学校、1935年10月30日、250-259頁。NDLJP:1452309/156。
- ^ 渡邊平之甫 編『古川氏盲唖教育法』文部省図書局、1913年3月20日。NDLJP:941252。
- ^ 町田光 (2015年3月27日). “今日のGoogleロゴ、日本初の手話考案者、古河太四郎生誕記念Doodle”. 財経新聞. 2015年3月27日閲覧。
- ^ “今日のGoogleロゴは古河太四郎生誕170周年”. MDN (2015年3月27日). 2015年3月27日閲覧。
- ^ “古河太四郎 〜日本初の手話考案者〜”. 東京人権啓発企業連絡会. 2015年3月27日閲覧。