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司馬望

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

司馬 望(しば ぼう、建安10年(205年)- 泰始7年6月24日271年8月16日))は、三国時代の武将・政治家。西晋の皇族。子初諡号成王司馬孚の次男[1]。伯父は司馬朗(養父)・司馬懿。従弟は司馬師司馬昭ら。

生涯

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家を出て伯父の司馬朗の後継となり、性質は温厚で父の面影があった。郡の上計吏に仕え、孝廉に推挙され、司徒掾に招聘され、さらに平陽太守洛陽典農中郎将を歴任した。

嘉平3年(251年)、司馬懿に従って王淩を討伐(王淩の乱)。これを降伏させた功により、永安亭侯に封じられた。さらに護軍将軍に遷り、安楽郷侯に改封され、散騎常侍を加官された。

魏帝曹髦(高貴郷公)の代になると彼にその才能を愛され、幾度も宮中に呼ばれて文学議論の相手を務めた。司馬望は宮廷外の官にあったため[2]、迅速に参内できるよう特別に追鋒車(快速馬車)を支給された。

一方、その頃の朝廷では従弟の司馬師と司馬昭兄弟が政治の実権を握り、簒奪へと地歩を固めていた。司馬望は曹髦に重用されていたことに不安を感じていたため、地方への転出を考えた。正元2年(255年)頃に持節・都督雍涼二州諸軍事・征西将軍を拝命し、蜀漢を迎え撃つことになった。魏は蜀漢の姜維の侵攻に悩まされていたが、司馬望が赴任するや付け入る隙を与えなくなった。甘露3年(258年)、諸葛誕の反乱に呼応した姜維の侵攻を、大将として鄧艾とともに防いだ[3]。地方に在任すること8年、その統治は高く評価された。

衛将軍・中領軍を経て、咸熙元年(264年)に開府・驃騎将軍となり、さらに咸熙2年(265年)9月には司徒に昇進した。同年12月、従甥の司馬炎禅譲を受けると義陽王に封じられ、1万戸の領地を与えられた。

泰始3年(267年)、太尉に遷った。泰始4年(268年)、施績江夏に侵入すると、仮節・大都督を拝命し龍陂に駐屯。呉軍は荊州刺史胡烈が撃退した[4]。さらに呉の丁奉の芍陂侵攻にも対応した[5]のち、大司馬に転じた。

泰始7年(271年)、呉の皇帝孫晧寿春に向かう騒動があったため、司馬望は中軍2万・騎兵3千を率いてこれに備えたが、孫晧が撤退したため帰国した。同年6月、実父の司馬孚に1年先立ち亡くなった。齢67。倹約家で、その死後に溢れるほどの財産を貯めていたことがわかり、輿論の謗りを受けた。

長男の司馬弈は司馬望より先に亡くなっていたため、司馬弈の子の司馬奇が跡を継いだ。司馬奇は品行が悪く、太康9年(288年)には司馬洪(司馬望の次男)の子の司馬威がこれに替わった。しかし永寧元年(301年)に司馬威が誅殺されると[6]、再び司馬奇が司馬望の後継に立てられた。

宗室

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出典

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  • 『晋書』巻37 列伝第7 安平献王孚伝附 義陽成王望伝

脚注

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  1. ^ 三国志』魏書司馬朗伝の注に引く『晋諸公賛』では司馬孚の長男とされるが、『晋書』安平献王孚伝では長兄に司馬邕を置く。
  2. ^ 『三国志』魏書高貴郷公紀注の『晋諸公賛』では中護軍とする。
  3. ^ 『三国志』蜀書姜維伝
  4. ^ 『晋書』安平献王孚伝では胡烈が施績を防いだとするが、同・世祖武帝紀では胡烈が防いだのは、連動して襄陽に侵入した万彧とする。
  5. ^ 『晋書』世祖武帝紀では「司馬駿とともに丁奉を攻撃し敗走させた」、同・安平献王孚伝では「司馬望の到着前に丁奉が撤退した」とする。
  6. ^ 『晋書』孝恵帝紀