コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

合羽摺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

合羽摺(かっぱずり)とは、日本における浮世絵版画での彩色法である。

合羽摺前史

[編集]
菱川師宣の「春本」から一丁(2ページ)が外れたもの。版本名は不明。墨摺絵筆彩色。1680年頃。挿絵人気により、テキストが上4分の1に追いやられるのが、版本から一枚摺に移行する時代の特徴である[1]スミソニアンフリーア美術館蔵。

木版画は単色摺が基本である。だが、上客からの要望もあり、彩色化が図られるようになる。最初は、摺った後にで着彩する方法が取られた。

安房国の縫箔[注釈 1]屋出身で、17世紀後半の江戸で活動した、菱川師宣の場合、版本や、「揃い物」[注釈 2]に、着彩されている墨摺絵が現存する。その後、1741-42年(寛保元-2年)に、色版を用いた紅摺絵[4][5]が、そして、1765年(明和2年)には、鈴木春信による多色摺、錦絵が登場する[6][7]

一方、師宣以前の上方、つまり大坂は、「洛中洛外図屏風」や「寛文美人図」等、「近世風俗画」が盛んに描かれたが、これらが「上がりもの」として江戸に持ち込まれることによって、師宣の歌舞伎絵・美人画春画を生むきっかけとなった[8][9]。上方でも、版本から一枚摺が生まれ、墨摺絵に筆彩色する過程は同じだが、その次に登場したのが「合羽摺」であったのが、江戸との違いである。

合羽摺の手法と長短所

[編集]
有楽斎長秀「祇園 神輿あらひ ねり物 先はやし 花菱屋 咲江」、1813-25年頃。上方合羽摺において、長秀の現存数が最も多い[10][11][12][13]

「主版」(おもはん)、つまり最初に摺る輪郭線[14]版木を用いるが、色版は、防水加工した紙を刳り抜いて型紙とし、墨摺りした紙の上に置き、顔料をつけた刷毛を擦って彩色した。色数と同じだけの型紙を必要とする[15][16]。防水紙を使用することから、「合羽」と呼ばれる。

合羽摺の利点は、加工が容易であり、コストが安く、納期が早い、馬連を用いないので、錦絵より薄く安価な紙が使用できる点である。

逆に欠点は、版木摺ほど細密な表現が出来ない、色むらが出やすい、重ね摺りすると、下の色は埋もれてしまう(版木の場合は、下の色を透かすことが可能。)、切り抜き箇所の縁に顔料が溜まりやすい、型紙が浮き上がり、顔料が外にはみ出すことがある、型紙を刳り抜くため、その内部に色を入れたくない部分がある場合は、「吊り」と呼ばれる、色を入れる箇所の一部を切り残す必要がある[注釈 3]、安価な紙を用いた為、大切にされず、現存数が少なくなっただろう点である[17][16]

上方の合羽摺

[編集]
伊藤若冲『花鳥版画』の内、「薔薇鸚哥図」。大英博物館蔵。明治期の翻刻版。平木本での樹幹の彩色・吹付けは合羽摺による。

合羽摺の登場は、享保年間(1716-36年)の絵本『聖泰百人一首』扉絵とされる[18]蘇州版画からの影響[注釈 4]か、友禅染の型紙の転用から生まれたと言われる[20][16]。しかし、それ以前に、大津絵で合羽摺が採用されていたとの論があり[21]、また他分野からの影響ではなく、職人なら自身で開発できるだろうとの仮説もある[20]

上方では、1813年(文化10年)頃に、江戸の錦絵が流入した[22]後でも、合羽摺が併存し、1887年(明治20年)頃まで存続した[23]

画題は役者絵と「練物(ねりもの)[注釈 5]」が大部分で[25]、判型は、錦絵が大判もしくは中判[注釈 6]が主流なのに対し、合羽摺は細判[注釈 7]が多い[27]

浮世絵師ではないが、伊藤若冲の『花鳥版画』(1771年(明和8年)、平木浮世絵財団は6種所蔵。)は、木版摺と合羽摺の併用とされている。黒地部分は、裏から馬連跡が見えるのに対し、彩色部は馬連跡が在る箇所と無い箇所がある。刷毛ではなく筆を使用し、濃淡を変化させたり、顔料を吹くなど、高度な技術が投入されている[28]。若冲は、親族に西陣織業者が居り、そこから友禅染の援用を思いついたのではと、山口真理子は指摘する[29][注釈 8]

長崎の合羽摺

[編集]
火喰鳥」。作者不明、1800年頃。大英博物館蔵。

長崎絵でも、合羽摺が用いられた。

人は新年を祝う為、唐寺で摺られた「年画」を家屋に貼る風習があり、それが周辺に住む日本人にも受け入れられ、江戸や上方とは異なり、版本から一枚絵に展開する過程を必要としなかった[31][32]

現存する「長崎絵」最古のものは、寛保から寛延年間(1741-1751年)とされ[33]、そのころから墨摺絵に手彩色することが始まり、天明年間(1781-1801年)頃に合羽摺が行われるようになる[34]

天保年間(1830-44年)初頭、渓斎英泉の門人である、磯野文斎が版元「大和屋」に婿入りし、後に彫師摺師を江戸から招くことにより、錦絵が齎された。但し他の版元では、合羽摺版行が続いた[34]

画題は、江戸や上方と異なり、オランダ人や唐人の風貌や装束、彼らの風習、帆船蒸気船、珍しい動物、出島図や唐人屋敷、唐寺など、長崎特有の異国情緒を催すものが描かれた[35][36]

1858年(安政5年)の日米修好通商条約締結後、外国人居留地の中心が横浜に移ることにより、1860年(安政7・万延元年)には横浜絵が隆盛し[37][38]、文久年間(1861-64年)頃に、長崎絵の版行は終わったとされる[39]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 装束刺繍をし、金銀箔を捺し貼ること[2]
  2. ^ 一枚摺が登場する前の、組売り版画。12枚揃いが多かった[3]
  3. ^ フィルム時代の映画字幕、「パチパチ文字」と同じ手法である。シネマフォント®の種類”. 2020年7月3日閲覧。
  4. ^ 樋口弘は、蘇州版画にも合羽摺があったことを指摘している。蘇州版画は朝初めから制作されている[19]
  5. ^ 祭礼時に山車を引いたり、集団で練り歩く事[24]
  6. ^ 前者は、大奉書紙を縦に二等分した大きさ。約39×26.5センチ。後者はその半分の約26×19センチ[26]
  7. ^ 小奉書紙を縦に三等分した大きさ。約33×15センチ[26]
  8. ^ ジャン=ガスパール・パーレニーチェクは、ヨーロッパでジャポニスムを引き起こした日本工芸品として、浮世絵版画以外に、尾形光琳を顕彰した、中村芳中酒井抱一らの版本と、染色用型紙を挙げている。型紙本来の用途ではなく、陰陽が逆転した像として、鑑賞対象になったのである[30]

出典

[編集]
  1. ^ 田辺 2016, pp. 41、57、60、62.
  2. ^ 石田ほか 1987, p. 725桐畑健「縫箔」
  3. ^ 田辺 2016, p. 35.
  4. ^ 国際浮世絵学会 2008, p. 441武藤純子「紅摺絵」
  5. ^ 田辺 2016, p. 279.
  6. ^ 小林 1979, pp. 138-139、142-144小林「版画彩色法の進歩」
  7. ^ 小林・大久保 1994, pp. 140–143藤澤紫「浮世絵版画における摺りの変遷とその顔料」
  8. ^ 小林 1979, pp. 120–129小林「近世初期風俗画の変質」
  9. ^ 辻 1986, pp. 107–133.
  10. ^ 山口・浅野 1981, p. 117.
  11. ^ 小林・大久保 1994, p. 250森山悦乃「絵師を知るための基礎知識」
  12. ^ 国際浮世絵学会 2008, p. 74北川博子「有楽斎長秀」
  13. ^ 松平 1999b, p. 81.
  14. ^ 国際浮世絵学会 2008, p. 110安達以乍牟「主版」
  15. ^ 小林・大久保 1994, p. 141藤澤紫「浮世絵版画における摺りの変遷とその顔料」
  16. ^ a b c 国際浮世絵学会 2008, p. 131北川博子「合羽摺」
  17. ^ 竹中 2006, p. 75.
  18. ^ 中出 2003, p. 8.
  19. ^ 樋口 1967, p. 49.
  20. ^ a b 松平 1999a, p. 223.
  21. ^ 紙屋 1930, pp. 9–10.
  22. ^ 松平 1999b, p. 205.
  23. ^ 国際浮世絵学会 2008, p. 132北川博子「合羽摺」
  24. ^ 国際浮世絵学会 2008, pp. 384–385榎本紀子「練物」
  25. ^ 松平 1999b, p. 6.
  26. ^ a b 国際浮世絵学会 2008, p. 410田辺昌子「判型」
  27. ^ 北川 2002, p. 7.
  28. ^ 山口 2007, pp. 457–458.
  29. ^ 山口 2007, p. 458.
  30. ^ パーレニーチェク 2019, pp. 13-14、27.
  31. ^ 樋口 1971, pp. 2–3.
  32. ^ 植松 2017, p. 127.
  33. ^ 樋口 1971, p. 4.
  34. ^ a b 樋口 1971, p. 22.
  35. ^ 樋口 1971, p. 15.
  36. ^ 植松 2017, pp. 7–120.
  37. ^ 八柳 1996, p. 186.
  38. ^ 国際浮世絵学会 2008, pp. 504–505横田洋一「横浜浮世絵」
  39. ^ 樋口 1971, p. 12.

参考文献

[編集]
  • 紙屋魚平「大津絵の手法」『浮世絵志』第17号、1930年5月、8-12頁。 
  • 永見徳太郎「長崎版画と黄檗宗」『浮世絵芸術』第9号、1932年10月。 
  • 樋口弘『中国版画集成 A Historical Skatch of Chinese Woodblock Prints』味燈書屋 Mitoh Sho-oku,Tokyo、1967年9月10日。 
  • 樋口弘『長崎浮世絵 A Complete Collection of Nagasaki Prints』味燈書屋、1971年6月20日。 NCID BN07544614 
  • 小林忠『日本美術全集22 江戸庶民の絵画-風俗画と浮世絵』学習研究社、1979年3月10日。 NCID BN01475097 
  • 山口桂三郎浅野秀剛『原色浮世絵大百科事典9 作品4 広重-清親』大修館書店、1981年8月30日。 NCID BN03623548 
  • 辻惟雄『風俗画入門』小学館、1986年4月20日。ISBN 4-09-820101-1 
  • 石田尚豊、ほか『日本美術史事典』平凡社、1987年5月25日。ISBN 4-582-12607-3 
  • 小林忠大久保純一編『浮世絵の鑑賞基礎知識』至文堂、1994年5月20日。ISBN 978-4-7843-0150-8 
  • 八柳サエ編 著「関連年譜」、横浜美術館 編『アジアへの眼-外国人の浮世絵師たち Eyes toward Asia:Ukiyoe Artists from Abroad』横浜美術館・読売新聞社、1996年8月10日、186-193頁。 
  • 松平進 著「上方の合羽摺りについて」、山口桂三郎 編『浮世絵の現在』勉誠出版、1999年3月、219-241頁。ISBN 4-5850-3063-8 
  • 松平進『上方浮世絵の再発見』講談社、1999年4月。ISBN 4-06-209515-7 
  • 北川博子 著「合羽摺役者と池田文庫」、財団法人阪急学園池田文庫 編『合羽摺の世界』2002年3月31日、7頁。 NCID BA56463856 
  • 中出明文『私の上方絵物語 合羽摺編』中尾松泉堂、2003年2月。 NCID BA62238038 
  • 竹中健司「木版における合羽摺り技法1」『浮世絵芸術  Ukiyo-e art』第152号、2006年7月、69-76頁、ISSN 0041-5979 
  • 山口真理子「伊藤若冲の「著色花鳥版画」研究」『鹿島美術研究年報・別冊 The Kajima Foundation for the Arts Annual Report』第24号、2007年11月15日、454-464頁。 
  • 国際浮世絵学会 編『浮世絵大事典』東京堂出版、2008年6月30日。ISBN 978-4-4901-0720-3 
  • 田辺昌子編『初期浮世絵展-版の力・筆の力Early Ukiyo-e:Power of the Woodblock,Power of the Brush』千葉市美術館、2016年1月9日。 NCID BB20324607 
  • 植松有希『長崎版画と異国の面影 Nagasaki Prints and Visions of Foreign Lands』板橋区立美術館ほか、2017年2月25日。 NCID BB23329163 
  • パーレニーチェク Páleníček, ジャン=ガスパール Jean-Gaspard 著「ジャポニスム-光琳、型紙、そして浮世絵 Japonisme:Kōrin,Katagami,and Ukiyo-e」、西山純子ほか 編『ミュシャと日本、日本とオルリク MUCHA AND JAPAN/ JAPAN  AND ORLIK』国書刊行会、2019年9月5日、13-30頁。ISBN 978-4-336-06317-5 

関連文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]