吉村英徴
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吉村 英徴(よしむら えいちょう[1]、1852年(嘉永5年7月[2])– 1916年(大正5年)1月30日[2][1])は、明治から大正初期の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・菅沼[3]、号・鉄幹[3]。
経歴
[編集]紀伊国有田郡、のちの和歌山県有田郡湯浅町[1]で菅沼家の第二子として生まれ[3]、17歳で吉村家を相続した[3]。和歌山県漢学授読を務め[2]、ドイツ語学を修めた[2]。
1880年(明治13年)京都療病院医学校(現京都府立医科大学)を卒業し[1]、同病院医局詰、同看頭を務めた[2]。1881年(明治14年)濱口梧陵の勧めで[3]有田郡広村[3](広町を経て現広川町)で有田郡私立那耆病院を開業し院長に就任した[1][2]。その他、有田郡医、地方衛生会委員、有田郡産婆及び看護婦養成所教授、有田郡医師会長などを務めた[2][3]。1899年(明治32年)湯浅町に移住した[3]。
1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙で和歌山県郡部から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した[1][2]。この間、憲政本党に所属した[2]。
人物
[編集]趣味は絵画で梅の絵が得意であった[3]。
脚註
[編集]参考文献
[編集]- 広川町誌編纂委員会編『広川町誌 下巻』広川町、1974年。
- 和歌山県史編さん委員会編『和歌山県史 人物』和歌山県、1989年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。