吉田宗桂
表示
吉田 宗桂(よしだ そうけい、永正7年(1510年) - 元亀3年10月20日(1572年11月25日))は、室町時代の医師。
来歴
[編集]曽祖父・吉田徳春から室町幕府の医官を務めた吉田家に生まれ、12代将軍・足利義晴の侍医を務める。天文8年(1539年)、天龍寺の策彦周良に随行して明に渡り、2年間医学を学んで帰国。 天文16年(1547年)再度明に渡る[1]。明帝世宗の病を治療、明国で日本名医の神術とたたえられ名声を博し、明帝世宗は恩賞を贈った。
薬能に詳しかったことから、宋の『日華子諸家本草』の著者・陳日華に擬して日華子と号し、意安と称して、代々の吉田家子孫は意安を号とした[2][3][4]。 多くの医学書を持って日本へ帰国後、宮内卿、法印に叙せられた[5]。
系譜
[編集]- 曾祖父:吉田徳春(1384年~1468年)佐々木秀義の六男・吉田六郎の11代孫。近江国愛知郡吉田村(現:滋賀県犬上郡豊郷町吉田)出身から吉田を名乗る。室町幕府の医官を務め、法印を拝命。号は仁庵。
- 祖父:吉田宗林(1448年~1543年)
- 父:吉田宗忠(1491年~1565年)
- 長男:角倉了以 (1554年~1614年,吉田光好)
- 二男:吉田宗恂 (1558年~1610年)号は又玄子。後陽成天皇の病気に献薬して法印となり、徳川家康の本草研究の顧問を務めた。家康の命で紫鉱物多味配合薬を作る。南蛮船によって珊瑚枝がもたらされたとき、侍医の中で名称,産地,採取法を答えたのが宗恂だけだったので、家康から称賛されている[6]。著書に『歴代名医伝略』『本草序例抄』
- 孫:吉田宗達(宗恂の子、吉晧、意安、宮内卿、法眼、法印、著書に『本草和名』二巻、『腎医類集』)
- 曽孫:吉田宗恪(法印、宗誠の子、幼名・岩麿、意安、宮内卿、法印、寛永10年(1633年)11歳で奥医師に列す。徳川家綱御不例の時、薬を献じ、全快となる。)
- 玄孫:吉田宗恬(宗恪の子、幼名・岩麿、宗運、如雲、宮内卿、延宝元年(1673年)家督を継ぎ、貞享元年(1684年)法印に叙す。意安、元禄2年(1689年)奥医師に列した。著書『飲撰摘要』、享保5年(1720年)4月4日没)
- 来孫:吉田宗怡(宗恬の子、式部卿、甫庵、意安) [7]
- 来孫:吉田宗恰(宗恬の子、甫庵、式部卿、意安。岡甫庵壽信の養子だったが、兄・宗怡の発病で実家を継承)
- 昆孫:吉田宗愉(宗恰の養子、吉田因竹宗知の三男。享保8年(1723年)に家を継ぎ、寛保元年(1741年)法印に叙し、意安と改めた。明和6年(1769年)致仕して如春と号した。五男は岡甫庵寿考(法眼)、著書に『家傳小品方』、『治要経験方』、安永3年(1774年)4月2日没)
- 仍孫:吉田宗愼(宗愉の子、宗恒、石麻呂、宮内卿、式部卿、父に先立ち早世)
- 仍孫:吉田秀成(宗愉の子、右近、右京、式部卿、父に先立ち早世)
- 仍孫:吉田宗懌(宗愉の子、宗愼・秀成の弟、彦三郎、兵部卿、意安、明和6年(1769年)に家を継ぎ、元明元年(1797年)法印に叙し、意安と改める。寛政9年(1797年)1月8日没)
- 仍孫:吉田壽孝(宗愉の子、孝五郎、孝悦、甫庵、岡甫庵壽愿の養子)
- 仍孫:吉田勝陳(宗愉の子、信六郎、求馬、野村筑前守勝供の養子)
- 子孫:吉田意安宗悌(明治3年(1870年)没)
墓地は芝公園の金地院にあり、同族である吉田桃源院(法印)家[8]、吉田盛方院(法印)家の墓も同じ敷地内にある[9][10]。
参考資料
[編集]脚注
[編集]- ^ 藤井尚久 編『医学文化年表』,P369日新書院,昭和17.
- ^ コトバンク:吉田宗桂
- ^ 藤井尚久 著『日本著名医略伝 : 稿本』,P56,藤井尚久,1943
- ^ 『寛政重脩諸家譜』第3輯,p227 巻第427 宇多源氏佐々木庶流吉田,國民圖書,1923
- ^ 『掃苔』2(9), 本草家吉田意安の墓 / 小川春興/p199~202,東京名墓顕彰会,1933-09
- ^ 『寛政重脩諸家譜』第3輯,p228 巻第427 宇多源氏佐々木庶流吉田,國民圖書,1923
- ^ 『日本医史学雑誌』(1293), 德川幕府醫官家督と任官 / 醫學博士 藤浪剛一/p288~291,日本医史学会,1941-07.
- ^ 『寛政重脩諸家譜』第7輯,P841,國民圖書,1923
- ^ 『掃苔』2(9), 本草家吉田意安の墓 / 小川春興/p199~202,東京名墓顕彰会,1933-09
- ^ 東京都港区文化財調査委員会編『港区の文化財』第11集 (三田と芝 その2),P64,東京都港区教育委員会,1975