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吉田弥右衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉田 弥右衛門よしだ やえもん元禄13年(1700年)- 明和3年(1766年))は、江戸時代日本農民川越藩武蔵国入間郡南永井村名主を務めた。川越地方で最初に甘藷の栽培に成功し、川越いもの基礎を確立した。

経歴

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元禄13年(1700年)南永井村の名主の吉田家に生まれる。新田義貞の末裔とも言うが定かでない。 長じて名主職を継ぎ、夏場の干ばつに弱く不作の多い同地の農民を救うべく工夫を重ねていた。寛延4年(1751年)2月28日、幕府の許しを得て江戸木挽町の商人川内屋八郎兵衛の仲介で倅吉田弥左衛門1725年-)を上総国志井津村の甘藷農家長十郎方へ派遣し、甘藷の栽培法を学ばせるとともに種芋二百個を五百文で買いつける(「弥右衛門覚書」)。弥左衛門の入手した種芋を元に試作を重ね、成功後近隣にこの作法を伝播し、武蔵野台地一帯を甘藷の一大産地とするまでに普及させた。

エピソード

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弥右衛門の普及した甘藷は「川越いも」の名で知られるようになり、寛政年間には江戸市中に川越いもを材料とした焼き芋屋が登場。天保年間になると「九里(栗)四里うまい十三里」として焼き芋が江戸市中で流行するほどになったという。

死後

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死後239年経った平成18年2005年)、甘藷乃神として青木昆陽と共に所沢市中富の三富・富岡総鎮守神明社に祀られた。

出典

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  • 「埼玉事始 ―さいたまいちばんものがたり―」(東京新聞浦和支局編 さきたま出版会 1987年)
  • 「日本甘藷栽培史」(中馬克己 高城書房 2002年)