吉田重氏
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄5年(1562年) |
死没 | 寛永15年3月4日(1638年4月17日)[1] |
改名 | 葛巻源八郎、吉田重氏、水軒(号) |
戒名 | 印西/一水軒印西 |
主君 | 豊臣秀次、結城秀康、松平忠昌、徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 葛巻氏、吉田氏 |
父母 | 吉田重綱 |
兄弟 | 重氏、定勝、貞氏 |
妻 | 吉田重綱娘 |
子 | 重信、三右衛門、重好、重儀 |
吉田 重氏(よしだ しげうじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・弓術家。日置流印西派の始祖。
略歴
[編集]→「日置流 § 大和日置系統 (吉田流)」も参照
近江国蒲生郡葛巻村出身。始め葛巻源八郎と称し、日置流(吉田流)弓術を伝えた吉田氏当主・吉田重綱の娘を娶るが、後に重綱と不仲となり、重綱の弟・業茂(左近右衛門・木反)に弓術を学び、婚家の姓を継いで吉田一水軒印西と号した。[2]
重氏の弓術の技術は精妙の域に達し、始め豊臣秀次、次いで結城秀康、松平忠昌に仕え、後にその技術を以って徳川家康、秀忠、家光の3代に拝謁した[3]。 寛永15年3月4日(1638年4月17日)死去。各地に門人が多数おり、これらは印西派と称された[4]。
嫡子・重信も弓術に精通し、寛永4年(1628年)12月16日、大御所徳川秀忠及び将軍家光に拝謁[4]、召されて旗本に列した[5]。重信の弟の三右衛門、重好(平内)もまた技術を継ぎ有名であった[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 日夏繁高、1920、『本朝武芸小伝』、大日本武徳会本部 (原著1716年) doi:10.11501/927114 全国書誌番号:43000365
- 堀田正敦 編「巻第四百三十一 宇多源氏(佐々木庶流) 吉田」『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜』 第3輯、國民圖書、1922年12月30日。全国書誌番号:21329093 。