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吉田重氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉田重氏
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄5年(1562年
死没 寛永15年3月4日1638年4月17日[1]
改名 葛巻源八郎、吉田重氏、水軒(号)
戒名 印西/一水軒印西
主君 豊臣秀次結城秀康松平忠昌徳川家康秀忠家光
氏族 葛巻氏吉田氏
父母 吉田重綱
兄弟 重氏定勝貞氏
吉田重綱娘
重信、三右衛門、重好、重儀
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吉田 重氏(よしだ しげうじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将弓術家。日置流印西派の始祖。

略歴

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近江国蒲生郡葛巻村出身。始め葛巻源八郎と称し、日置流(吉田流)弓術を伝えた吉田氏当主・吉田重綱の娘を娶るが、後に重綱と不仲となり、重綱の弟・業茂(左近右衛門・木反)に弓術を学び、婚家の姓を継いで吉田一水軒印西と号した。[2]

重氏の弓術の技術は精妙の域に達し、始め豊臣秀次、次いで結城秀康松平忠昌に仕え、後にその技術を以って徳川家康秀忠家光の3代に拝謁した[3]寛永15年3月4日1638年4月17日)死去。各地に門人が多数おり、これらは印西派と称された[4]

嫡子・重信も弓術に精通し、寛永4年(1628年)12月16日、大御所徳川秀忠及び将軍家光に拝謁[4]、召されて旗本に列した[5]。重信の弟の三右衛門、重好(平内)もまた技術を継ぎ有名であった[4]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 『史料綜覧』第12編之917 220頁
  2. ^ 日夏 1716, p. 29.
  3. ^ 日夏 1716, p. 29-30.
  4. ^ a b c 日夏 1716, p. 30.
  5. ^ 堀田 1923, p. 244.

参考文献

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  • オープンアクセス日夏繁高、1920、『本朝武芸小伝』、大日本武徳会本部 (原著1716年) doi:10.11501/927114 全国書誌番号:43000365
  • オープンアクセス堀田正敦 編「巻第四百三十一 宇多源氏(佐々木庶流) 吉田」『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜』 第3輯、國民圖書、1922年12月30日。全国書誌番号:21329093https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/131