吉祥寺 (古河市)
吉祥寺 | |
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所在地 | 茨城県古河市水海3026 |
位置 | 北緯36度08分33.104秒 東経139度45分49.266秒 / 北緯36.14252889度 東経139.76368500度座標: 北緯36度08分33.104秒 東経139度45分49.266秒 / 北緯36.14252889度 東経139.76368500度 |
山号 | 清浄山(淸淨山) |
院号 | 歓喜院(歡喜院) |
宗旨 | 浄土教 |
宗派 |
時宗 真言宗(1305年まで) |
本尊 | 阿弥陀如来 |
中興年 |
嘉元3年(1305年) 慶長2年(1597年) 水海村に移転 |
中興 | 真教 |
正式名 |
清浄山歓喜院吉祥寺 淸淨山歡喜院吉祥寺 |
札所等 | 葛飾坂東観音霊場 第十二番札所 |
法人番号 | 7050005005660 |
吉祥寺(きちじょうじ)は、茨城県古河市水海にある時宗の寺院。山号を清浄山、院号を歓喜院という。本尊は阿弥陀如来。清浄光寺(現在は藤沢市)の末寺。[1] [2]
歴史
[編集]創建について詳細は不明だが、寺伝によれば、もとは水海南部・現在の利根川近くの柳原にあり、真言宗寺院だったが、嘉元3年(1305年)、一遍の弟子・真教が滞在したおりに時宗に改宗したとされる[1]。
寺があった柳原は古河公方重臣・簗田氏居城の水海城に隣接し、正蔵寺や実相寺、普舜院などの寺院が密集していた。また港湾部にもなっており、現在の利根川下流域、すなわち当時の常陸川・香取内海の交通・交易の拠点となっていた。吉祥寺も交通・交易に携わる人々に支えられ、創建されたと推定される[3]。
天正 18年(1590年)、小田原合戦にともない、豊臣秀吉の軍勢によって柳原一帯も焼き払われ、吉祥寺の堂宇も焼亡。のちの慶長2年(1597年)、内水海の現在地にて再建される[1]。
天正 19年(1591年)11月の領地安堵により、5石の寺領があった(「下総国旧事考」)[2]。文政 4年(1821年)、堂宇は再び焼失したが、同 6年に再建される[1]。
明治 3年(1870年)、檀家は80軒あった(『社寺取調類纂』46 - 172)[2]。昭和 39年(1964年)、堂宇の大修築を行ない現在に至る[1]。
葛飾坂東観音霊場
[編集]吉祥寺は葛飾坂東観音霊場の第十二番札所。弘法大師作と伝えられる三面六臂の観音が祀られている。なお境内には、梅花観音と洗浄観音があわせて祀られている。ご詠歌は「かねのねは 松の嵐も ささ浪や 水海の名に ひびきこそすれ」[4]。
葛飾坂東観音霊場では各寺院に「ご詠歌」があり、参拝時にご詠歌を唱えることは、経文読唱と同じ功徳があるとされる[5]。
交通
[編集]- 鉄道
脚注
[編集]- ^ a b c d e 『総和町史 民俗編』 457頁(吉祥寺)
- ^ a b c 『総和町史 通史編 近世』 385頁(町内の寺院 水海村・松本剣志郎 執筆)
- ^ 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 493 - 497頁(古寺院の密集する景観、中世都市六浦・品川との類似 ・ 内山俊身 執筆)
- ^ 鈴木印刷所 制作・印刷・製本 『葛飾坂東札所めぐり公認ガイドブック 葛飾坂東観音御開帳』 平成26年(2014年)、54頁(吉祥寺)
- ^ 鈴木印刷所 制作・印刷・製本『葛飾坂東札所めぐり公認ガイドブック 葛飾坂東観音御開帳』 平成26年(2014年)、11頁(葛飾坂東観音御開帳のあらまし)
- ^ 駅西口前「花桃館」(まちなか再生市民ひろば)にて・古河市公式サイト 観光・歴史 古河市の観光パンフレットより
参考文献
[編集]- 鈴木印刷所 制作・印刷・製本 『葛飾坂東札所めぐり公認ガイドブック 葛飾坂東観音御開帳』 平成26年(2014年)
- 総和町史編さん委員会 編 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 総和町、平成17年(2005年)
- 総和町史編さん委員会 編 『総和町史 通史編 近世』総和町、平成17年(2005年)
- 総和町史編さん委員会 編 『総和町史 民俗編』 総和町、平成17年(2005年)