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吉良尊義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉良尊義
時代 南北朝時代
生誕 正平3年/貞和4年(1348年
死没 不明
改名 義貴(初名)→尊義
戒名 霊源寺殿
墓所 吉良庄岡山の霊源寺[1]
官位 中務大輔
主君 足利尊氏
氏族 後期東条吉良(下吉良)氏
父母 父:吉良満義
兄弟 満貞一色有義尊義岡山満康
橋田満長
朝氏
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吉良 尊義(きら たかよし)は、南北朝時代武将後期東条吉良(下吉良)氏初代。三河国東条城主。

生涯

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吉良満義の子[2]として誕生。当初は義貴を名乗ったが足利尊氏より偏諱を受け尊義と名乗る。

奥州(武蔵)吉良氏(前期東条吉良氏)の吉良貞家満家父子が陸奥国に去った後、東条の地は惣領家である西条吉良氏領となり、吉良満義が東条城を接収した。その後、尊義が生まれるが、間もなく観応の擾乱が勃発し、父・満義と長兄・満貞足利直義派として各地を転戦、直義の死後はその養子・直冬南朝と結んで尊氏に敵対した。

西尾市花岳寺の吉良尊義の墓

正平11年/延文元年(1356年)に満義が没すると、東条の被官層は9歳の尊義を奉じて尊氏派に転じ、新たに東条吉良氏として独立する。これを押領とする満貞との間で合戦に及ぶが、その後、満貞の北朝帰順もあり、和談が成立、尊義は正式に東条相続を認められる。しかし、尊義独立の際の争いは禍根を残し、室町時代を通じて西条・東条両吉良氏は対立・抗争を繰り返すこととなった。

正平23年/貞治7年/応安元年(1368年)、東福寺において父・満義の十三回忌法要を盛大に営んでいる。

脚注

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  1. ^ 現・愛知県幡豆郡吉良町岡山花岳寺境内東条吉良氏墓所。
  2. ^ 系図により三男とも四男とも言われる。

出典

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  • 『吉良町史 中世後期・近世』