吉良尊義
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時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 正平3年/貞和4年(1348年) |
死没 | 不明 |
改名 | 義貴(初名)→尊義 |
戒名 | 霊源寺殿 |
墓所 | 吉良庄岡山の霊源寺[1] |
官位 | 中務大輔 |
主君 | 足利尊氏 |
氏族 | 後期東条吉良(下吉良)氏 |
父母 | 父:吉良満義 |
兄弟 |
満貞、一色有義、尊義、岡山満康、 橋田満長 |
子 | 朝氏 |
吉良 尊義(きら たかよし)は、南北朝時代の武将。後期東条吉良(下吉良)氏初代。三河国東条城主。
生涯
[編集]吉良満義の子[2]として誕生。当初は義貴を名乗ったが足利尊氏より偏諱を受け尊義と名乗る。
奥州(武蔵)吉良氏(前期東条吉良氏)の吉良貞家・満家父子が陸奥国に去った後、東条の地は惣領家である西条吉良氏領となり、吉良満義が東条城を接収した。その後、尊義が生まれるが、間もなく観応の擾乱が勃発し、父・満義と長兄・満貞は足利直義派として各地を転戦、直義の死後はその養子・直冬や南朝と結んで尊氏に敵対した。
正平11年/延文元年(1356年)に満義が没すると、東条の被官層は9歳の尊義を奉じて尊氏派に転じ、新たに東条吉良氏として独立する。これを押領とする満貞との間で合戦に及ぶが、その後、満貞の北朝帰順もあり、和談が成立、尊義は正式に東条相続を認められる。しかし、尊義独立の際の争いは禍根を残し、室町時代を通じて西条・東条両吉良氏は対立・抗争を繰り返すこととなった。
正平23年/貞治7年/応安元年(1368年)、東福寺において父・満義の十三回忌法要を盛大に営んでいる。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『吉良町史 中世後期・近世』