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吉良親貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉良 親貞
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文10年(1541年
死没 天正4年7月15日1576年8月9日
改名 長宗我部親貞 → 吉良親貞
別名 弥五良、左京進、播磨守
幕府 室町幕府
主君 長宗我部国親元親
氏族 秦姓長宗我部氏源姓希義流吉良氏
父母 父:長宗我部国親:不明
養父:吉良宣直
兄弟 長宗我部元親親貞香宗我部親泰島親益
正室吉良宣直の娘
如淵親実親正親英?
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吉良 親貞(きら ちかさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長宗我部国親の次男。長宗我部氏家臣中村城主。

生涯

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天文10年(1541年)、土佐国戦国大名・長宗我部国親の次男として誕生。

初陣は兄・長宗我部元親と同じ長浜の戦いである。永禄6年(1563年)、兄の命で土佐吉良氏の婿養子となってこれを継ぎ、その後は一条氏討伐で軍功を挙げ、元親に代わって総大将を務めることもあった。一条兼定の追放も、この親貞の尽力あってのことと言われている。

天正2年(1574年)、中村城主になる[1]

天正3年(1575年)、一条兼定が再起を図って土佐に攻め込んできた際、一時、長宗我部氏は窮地に陥ったが、親貞は四万十川の戦いで一条軍を破り、その窮地を救った。

天正4年(1576年)、病死。

脚注

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関連項目

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