コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

吉見正頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉見 正頼
吉見大蔵大輔正頼
毛利博物館「毛利元就座備図」より)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正10年[1]1513年
死没 天正16年5月22日1588年6月15日[注釈 1]
改名 正頼、周鷹(法号)[1]、正頼[1]
別名 四郎、式部四郎(通称)[1]
戒名 周鷹寺殿月左鷹公大居士
墓所 山口県萩市大井の海岸山周鷹寺
官位 式部少輔三河守[1]大蔵大輔[1]出羽守[1]
幕府 室町幕府
主君 大内義興義隆毛利元就[1]輝元
氏族 清和源氏範頼石見吉見氏
父母 父:吉見頼興[1]、母:内藤弘矩の娘[1]
兄弟 興成[1]隆頼[1]、威俊[1]、周信[1]
正頼頼盛頼員[1]頼実[1]範弘
周布輔興[1]
正室:大宮姫[1]
継室?:内藤隆春
側室?:光井氏
広頼[1]広正
テンプレートを表示

吉見 正頼(よしみ まさより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将石見国鹿足郡津和野三本松城を本拠とした国人吉見氏の当主。大内氏毛利氏の家臣。

出自

[編集]

石見国国人である石見吉見氏は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の弟・範頼を遠祖とする清和源氏の支流・吉見氏の傍流にあたる。

生涯

[編集]

永正10年(1513年)、吉見頼興の五男として誕生。当初は石見津和野興源寺で僧籍にあったが[1]天文9年(1540年)、父より家督を継いでいた兄・隆頼(頼隆)が不慮の死を遂げたため還俗して家督を継ぎ、隆頼の正室であった大宮姫大内義隆の姉)を娶った[2][3]。正頼は清廉な人物で、大内義隆から厚く信任を受けた。

天文19年(1550年4月、長年所領の境界を争ってきた益田藤兼一本松城下瀬城を攻めてきたため、これを撃退した。

天文20年(1551年8月、大内義隆の密使として相良武任が正頼の許に訪れる[4]。そして9月1日には義隆が重臣の陶隆房の謀反によって討たれる(大寧寺の変[5][6][4][7]陶氏と吉見氏は同じ大内家臣でありながら応仁の乱以来の仇敵であった。加えて隆房は、当時正頼と領地を巡って争っていた益田藤兼の従兄であり、隆房自身も益田氏側に味方をしていたことから、正頼は反隆房の急先鋒として挙兵する。また、密かに安芸国毛利元就と交渉して決起を促した。しかし義隆は家臣同士の争いを好まなかった。

天文23年(1554年)、大内軍による総攻撃を受けて三本松城に籠城するが、最終的には子・広頼を人質に出し講和する(三本松城の戦い)。弘治3年(1557年)、元就の防長経略に際しては毛利軍と同調して山口に侵攻、長門国阿武郡にある渡川城から大内軍(野上房忠の軍勢)を排除して山口北部の宮野口へ迫り、山口を陥落させた。同年、大内氏が滅ぶと元就の家臣となり[1]、石見吉賀郡、長門阿武郡、厚東郡周防国佐波郡内に所領を持った[1]。元就も義隆同様、正頼の清廉な性格を厚く信頼した。元亀2年(1571年)に元就が死去した後は、後を継いだ嫡孫・毛利輝元の補佐を吉川元春から依頼されている。

天正9年(1582年)、備中国高松城への出陣を最後に、家督を子・広頼に譲って長門阿武郡指月城に隠居[1]。天正16年(1588年)5月22日または閏5月22日に同地で死去した[1]。享年76。指月城下に葬られたが、のちに長門阿武郡大井村串山麓に改葬された[1]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 死没年月日を天正16年5月22日とする文献もある[1]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 田村哲夫編修 1980, p. 90.
  2. ^ 『吉見系譜』
  3. ^ 『大内系図』
  4. ^ a b 『言延覚書』
  5. ^ 『大内義隆記』
  6. ^ 『大内義隆記』異本
  7. ^ 『中国治乱記』

参考文献

[編集]
  • 近藤清石『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345 オープンアクセスNDLJP:780384
  • 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション