名村元義
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時代 | 幕末 |
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生誕 | 享和2年(1802年) |
死没 | 安政6年9月7日(1859年10月2日) |
改名 | 名村貞四郎、貞五郎、八右衛門 |
別名 | 花蹊(号)[1] |
戒名 | 徳翁元義居士 |
墓所 | 長崎晧台寺 |
幕府 | 江戸幕府阿蘭陀通詞 |
氏族 | 藤原姓名村氏別家(八右衛門系)[1] |
父母 | 名村元武 |
兄弟 | 小川慶右衛門? |
名村 元義(なむら もとよし)は幕末の阿蘭陀通詞、蘭学者。長崎通詞名村氏別家7代目。ジャーナリスト福地源一郎の師で、一時養子とした。
経歴
[編集]享和2年(1802年)生まれ[1]。文政5年(1822年)稽古通詞、文政11年(1828年)小通詞末席となり、天保3年(1832年)から天保6年(1835年)まで江戸天文台に勤務し、天保8年(1837年)小通詞並[1]。天保12年(1841年)9月25日養父三次郎が死去し、家督を継いだ[1]。弘化元年(1844年)小通詞助、弘化2年(1845年)小通詞[1]。嘉永元年(1848年)松前から護送されてきたラナルド・マクドナルドの通訳に当たった[1]。安政2年(1855年)大通詞過人、安政4年(1857年)大通詞[1]。長崎海軍伝習所でカッテンディーケ等の講義を通訳した[1]。嘉永2年(1849年)年番小通詞、嘉永4年(1851年)・安政元年(1854年)・安政3年(1856年)・安政4年(1857年)参府休年出府通詞を務めた[1]。安政6年(1859年)9月7日万屋町で死去し、晧台寺に葬られた[1]。戒名は徳翁元義居士[1]。
訳書等
[編集]- 『西暦新編』 - 天文台時代の作[1]。ペイポ・ステーンストラ (Pibo Steenstra) 原著[2]。天保8年(1837年)天文方山路諧孝編[3]。
- 『遠西火攻精選』 - 高島秋帆がオランダ商館長ニーマンから入手したセッセレル著『主要花火工品製造に関する便覧』[4]の翻訳で、19世紀初の砲術翻訳書。江川英龍門下に流布した[5]。
- 『和蘭炮術全書』 - オーフルストラテン (J.P.C. van Overstraten) 原著[6]。
- 『泰西水軍操砲鑑』 - ピラール (Jan Carel Pilaar) 原著[7]。
- 『歩兵全書』[1]
- 『遠西軍艦砲要』[1]
- 「阿蘭陀国軍艦長崎入港仕末」 - 天保15年(1844年)来港したフリゲートの見聞記[8]。
弟子
[編集]親族
[編集]- 実兄?:小川慶右衛門 - 大通詞[1]。
- 養父:名村三次郎元武(八十郎延護) - 小通詞[1]。
- 妻:政(満佐) - 三次郎娘。天保11年(1840年)4月19日没[1]。
- 長男:名村五八郎元度 - 箱館奉行支配調下役格[1]。34歳のとき通弁として万延元年遣米使節に参加
- 養子:福地源一郎[1]
- 養子:名村泰蔵(北村元四郎)[1]
- 次男:名村貞五郎元竜 - 天保12年(1841年)生。安政5年(1858年)稽古通詞、文久元年(1861年)小通詞末席、長崎県上等通弁役・権小属。明治3年(1870年)4月12日没[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 石原 1988.
- ^ Grondbeginsels der sterrekunde - Google ブックス
- ^ “西洋天文学の導入”. 貴重資料展示室. 国立天文台三鷹図書室. 2017年5月15日閲覧。
- ^ Sesseler, J. W., Handboek ter vervaardiging van Ernstvuurwerken, zoo als die bij de Nederlandsche land- en Zeemagt in gebruik zijn, Delft, 1823 - Google ブックス
- ^ 山田 2014.
- ^ “和蘭炮術全書(書写)”. 古文書目録. 佐賀県立図書館. 2017年5月14日閲覧。
- ^ LCCN 99-432713 – Taisei suigun sōhōkan
- ^ 『長崎遺響』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
[編集]- 石原千里「オランダ通詞名村氏 常之助と五八郎を中心に」『英学史研究』第1989巻第21号、日本英学史学会、1989年、37-60頁、doi:10.5024/jeigakushi.1989.37。
- 山田研治「幕末のメートル法による近世度量衡の生成 : 高島流砲術の系譜を中心として」『計量史研究』第36巻第1号、日本計量史学会、2014年、37-48頁、ISSN 0286-7214、NAID 110009816713。