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向瑞琨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
向瑞琨
プロフィール
出生: 1883年[1]
死去: 1929年民国18年)[1]
中華民国の旗 中華民国
出身地: 清の旗 湖南省長沙府寧郷県
職業: 政治家・実業家・ジャーナリスト
各種表記
繁体字 向瑞琨
簡体字 向瑞琨
拼音 Xiàng Ruìkūn
ラテン字 Hsiang Jui-k'un
和名表記: こう ずいこん
発音転記: シアン ルイクン
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向 瑞琨(こう ずいこん)は清末民初の政治家・実業家・ジャーナリスト。北京政府の要人。淑予[2]。旧名は瑞琦[1]

事績

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湖南時務学堂を卒業後、日本に留学し、明治大学商工科で学ぶ[3]。帰国後は、両江総督端方の下で商務文案に任命された。1910年宣統2年)、南洋勧業博覧会幇弁をつとめる。翌年に工商科挙人として農商部に赴任した。さらに漢口へ移り、新聞『復報』を編集した[2]

中華民国成立後は北京に移り、『亜東新報』、『東大陸報』の両紙で主筆をつとめる。さらに、湯化竜らと民主党を結成した。1912年民国元年)8月、北京政府の工商部次長に就任する。翌年7月には、段祺瑞臨時内閣で一時的に工商総長を代理した[2]

その後、向瑞琨は全国商会連合会の創設に携わり、副会長に任じられる。まもなく会長に昇格した。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を画策すると、向瑞琨は帰郷する。以後、故郷において商工業の振興に取り組み、瑞興玻璃工廠の総理などを務めた[2]1929年(民国18年)、死去。享年47。

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  1. ^ a b c 寧郷県史志档案局(2011)。
  2. ^ a b c d 徐主編(2007)、390頁。
  3. ^ 徐主編(2007)、390頁による。寧郷県史志档案局(2011)は、「日本商科大学」卒業としているが、この大学は1935年開設であり、向が留学した当時は存在しない。単に「日本の商科大学」ということを意味している可能性もある。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 「向瑞琨」寧郷県档案信息網(寧郷県史志档案局ホームページ)、2011年6月27日
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
劉揆一
工商総長(代理)
1913年7月
次代
張謇