コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

吾妻四郎助光

この記事は良質な記事に選ばれています
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吾妻四郎助光
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 不詳
死没 不詳、伝承久3年(1221年)
別名 吾妻四郎、吾妻助光
幕府 鎌倉幕府
主君 源実朝
氏族 前吾妻氏(吾妻氏[注 1]
父母 不詳。伝・父:吾妻太郎助亮
テンプレートを表示

吾妻四郎助光[5](あがつましろうすけみつ、生没年不詳[6]、伝・承久3年(1221年)没[7])は鎌倉時代の『吾妻鏡』に登場する人物で、弓の名手である[8][9]吾妻助光[6]とも。伝説的には、上野国吾妻郡群馬県吾妻川流域)を治めた吾妻氏の一族であるとか、岩櫃城城主であったなどというが、具体的な証拠はない[5][注 2]

概要

[編集]

吾妻氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて、上野国吾妻郡群馬県の北西部の吾妻川流域)東部を支配したと伝わる氏族である[9][注 3]。ただし史料など具体的な根拠に欠き、伝承や伝説に頼らない確実なことはほとんど何も判っていない。

確実にいえることは、「吾妻四郎助光」が鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に4度登場し、将軍源実朝に仕える弓の名手であったということである[9]。『吾妻鏡』では、「吾妻四郎助光」は鎌倉在住の御家人としてのみ登場し、領地が吾妻郡であったかどうかについても全く言及はなく、またその系譜や末路、後裔についても一切触れられていない[11]

江戸時代以降、吾妻郡や吾妻氏についてさまざまな伝承や伝記を収録したいくつもの文献が登場し、「吾妻四郎助光」もそれらの中に言及がある。ただし、これらの諸伝が何を根拠に書かれたかは不明で、『吾妻鏡』などと矛盾する点もあり、信頼に足るものではないと考えられている。これらの諸伝のなかには、吾妻氏は承久の乱を境にいちど断絶したとするものがあり、これをもとに「前吾妻氏」と「後吾妻氏」に区分される場合もある。吾妻四郎助光(吾妻助光)は「前吾妻氏」の最後の当主であるともいう。

背景

[編集]
吾妻地方概略図
岩櫃城があった岩櫃山。吾妻四郎助光はその城主だったとする伝承もあるが、史実性は不確かである。

他地域と比較すると上野国は中世以前の信頼できる史料が少ないとされ、とりわけ吾妻地方(吾妻川流域)はその傾向が顕著である[注 4][注 5]。その原因として、古代から中世にかけての榛名山浅間山の噴火で吾妻地方の在地領主が大打撃を受けたこと[注 6]、戦国時代に相模北条氏甲斐武田氏越後上杉氏という有力戦国大名が進出して上野の有力戦国大名が育たなかったこと[17]、などがあげられている[注 7]。いずれにせよ、中世の吾妻地方の勢力図を直接示す史料はなく、『吾妻鏡』に「吾妻氏」が登場すること以外には、確かなことは何もわからない[28]

その『吾妻鏡』においてもわずかに吾妻氏の名前があるのみで、吾妻氏が吾妻郡を領知していたのかどうかについてさえ、何も言及がない[12]。登場する吾妻氏数名のうち、最も詳述されている「吾妻四郎助光」は、鎌倉在住の人物として描かれている。ただ、吾妻氏の名が、他の上野国の御家人と並んで列記されていることから、吾妻氏も上野国の有力御家人だったのだろうと推定されている[29][30][注 8]

吾妻地方の中世の情勢を示す同時代的史料が永禄年間(1558年 - 1570年)の『関東幕注文』である。この文書は上杉謙信が関東地方に進出した際に服属した東国諸将を記録したもので、このなかに吾妻地方の有力者として「岩下衆」の「斎藤越前守」の名が見える[10][注 9]。この斎藤氏は、のちに武田氏真田氏と争って滅ぼされた岩櫃城の斎藤氏と目される。しかし『関東幕注文』には「岩櫃」ではなく「岩下」とあることから、『関東幕注文』の時点ではまだ斎藤氏は岩櫃城に拠っていなかったのではないか、とも考えられている[12][10]。岩櫃城の斎藤氏は吾妻氏の後裔を標榜したというが[31]、確かなことは判っていない[12]

江戸時代になって、吾妻地方についての「史書」が民間でさかんに書かれた[29]。しかしこれらはいずれも根拠が全く不明で、明らかに史実でない内容も含まれており、「伝説集」にすぎないものとされている[29]。いくらか信頼性があるとされるのが元沼田藩藩士による『加沢記』で、当時実在した史料を多数引用していて、その史料の一部が現存して検証できることから記述の妥当性が裏付けられている。とはいえ、現存しない史料も含まれていて真偽は不明な部分も多く、全部を無批判に採用できるものでもない。

吾妻氏に関する情報源は、『加沢記』や数々の伝説集にほぼ限られている。「吾妻四郎助光」はそのような伝承・伝説に拠っており、史実性については判っていない。

『吾妻鏡』に登場する吾妻四郎助光

[編集]

鎌倉時代の成立と推定されている歴史書『吾妻鏡』には、「吾妻氏」から「吾妻八郎」「吾妻太郎」「吾妻四郎助光」の3人が登場する[1][32][5]。これにより平安時代末期から鎌倉時代初期の東国に「吾妻氏」という有力御家人がいた事自体は確実性が高いとみられる[12]。しかし『吾妻鏡』には所領や系譜などの記載はなく、詳しいことは何もわからない[12]

1204年2月10日

[編集]

「吾妻四郎助光」は元久元年(1204年)2月の鎌倉幕府の御的会に選抜射手として登場する[12]。これは源実朝が将軍位を継いで最初の弓初め会であった[33]。四郎助光はこのとき新将軍の前で技を披露する6名に選抜されていることから、相当な名手であったことが窺える[5][33]

十日。甲戌。晴。寒風甚利。及午剋。徐休止。有御弓始。(中略)
射手
一番 和田平太胤長 榛谷四郎重朝
二番 諏方大夫盛隆 海野小太郎行氏(注:海野幸氏[33]
三番 望月三郎重隆 吾妻四郎助光 — 『吾妻鏡』巻十八、元久元年2月10日条 、国立国会図書館デジタルコレクション『吾妻鏡』十八巻、コマ番号47

1207年8月17日

[編集]
十五日。戌午。小雨。鶴岳宮放生會。将軍家既欲御参宮之處。随兵巳下臨有申障之輩。被別人之程。数尅被御出。尤為神事遠亂 — 『吾妻鏡』巻十八、建永2年8月17日条 、国立国会図書館デジタルコレクション『吾妻鏡』十八巻、コマ番号63

建永2年(1207年)夏、源実朝鶴岡八幡宮放生会に臨むにあたり、警護のため「吾妻四郎助光」が伴を命じられた[34][6]。ところが吾妻助光を含め、これを怠る者が続出した[1][注 10]。実朝は急遽代わりの警護を手配しなければならなくなり、大きく出発が遅れてしまう。その結果、奉納舞楽の上演が夜にずれ込んでしまい、実朝は全ての予定を果たすことができずに帰る羽目になった[33]

後日この件が問題視され、執権北条義時、駿河守北条時房大江広元三善善信、それに二階堂行光によって詰問が行われた[33]。吾妻四郎助光以外にも不参加だった武将がいたが、彼らはそれぞれ、身内に不幸があって服喪しており慶賀行事に参加するのは憚られたとか、病気で体調を崩していたとか申し立てて難を逃れた[33]。しかし吾妻四郎助光は適切な理由を述べることができなかった[33]

而随兵之中。吾妻四郎助光。無其故参之間。以行光仰云。助光雖指大名。賞為累家之勇士。被加之訖。不面目乎。 — 『吾妻鏡』巻十八、建永2年8月17日条 、国立国会図書館デジタルコレクション『吾妻鏡』十八巻、コマ番号63

二階堂行光[注 11]は、大名でもない吾妻助光が伴に加えられるのは武勇をかわれての名誉なのに、怠るとは何事かと咎る。吾妻助光は、晴れの舞台のために用意した鎧をネズミに齧られてしまい、傷物の鎧で列に加わってはかえって将軍の恥になると考えて自重した、と弁解した[5][33]

助光謝申云。依晴儀。所用意鎧。為鼠致損之間。 — 『吾妻鏡』巻十八、建永2年8月17日条 、国立国会図書館デジタルコレクション『吾妻鏡』十八巻、コマ番号63

だがこれが逆に二階堂行光の逆鱗に触れた[12]。二階堂行光は、列に加わるのはあくまで警護が目的であり、新調の鎧で着飾って見せるのではなく、倹約して代々使い古されて傷んだ鎧を着てこそ武士の誉れである、と叱る。そのうえで、吾妻助光は以後の出仕に及ばずとされてしまう[12][6][33]

助光者所出仕也。 — 『吾妻鏡』巻十八、建永2年8月17日条 、国立国会図書館デジタルコレクション『吾妻鏡』十八巻、コマ番号64

1207年12月3日

[編集]

この年の暮れ[注 12]、実朝の館の上空にアオサギが飛来し、寝殿の屋根に居着いてしまった。近習にこれを射落とすように命ずる[注 13]も、誰も名乗り出ない。そこで北条義時(相模守)は、先般勘気に触れて退けられてしまった吾妻助光が近くに待機しているはずなので、召し出せと命じる[37]

相州被申云。吾妻四郎助光。為申蒙御気色。当時在御所近辺歟。可之。 — 『吾妻鏡』巻十八、承元元年12月3日条 、国立国会図書館デジタルコレクション『吾妻鏡』十八巻、コマ番号65

吾妻四郎助光は急遽駆けつけた。慌てたために衣服を逆さまに着用していたという[33][注 14]。助光は狙いを定めて矢を放つも、その場の者たちからは助光が的を外してしまったように見えた。ところがサギは庭先に落ちてくる。助光は、サギの左目に矢羽根をかすらせて、サギを落として生け捕りにするという離れ技を披露したのだった[37][8]

助光兼以所相計違也。乍生射留之。御感殊甚。如元可昵近之由。匪仰出。所給御剣也。 — 『吾妻鏡』巻十八、承元元年12月3日条 、国立国会図書館デジタルコレクション『吾妻鏡』十八巻、コマ番号65

助光はその腕前を称賛され、太刀を授かるとともに、改めて実朝の側近に取り立てられた[37][8]

一連のエピソードから、吾妻四郎助光は鎌倉に住んで幕府に勤めていたことが窺い知れる[5][注 15]

1209年1月6日

[編集]

その後も正月の弓始めで助光が射手を務めたことが記録されている[33]

将軍家出御。其後被和田平田胤長。望月三郎重隆。手島太郎。筑後六郎知尚。吾妻四郎助光已下射手。有御的始 — 『吾妻鏡』巻十八、承元2年1月6日条 、国立国会図書館デジタルコレクション『吾妻鏡』十九巻、コマ番号70

『吾妻鏡』ではこの記録を最後に、吾妻氏に関する記述はない[33]

後世の言及

[編集]

『再編吾妻記』には吾妻四郎助光が将軍の館の屋根からサギを射落とした逸話が収録されている[37]

伝承や物語に登場する吾妻四郎助光

[編集]

江戸時代になると、吾妻地方では地元の歴史を綴ったさまざまな書物が著された。地元の仏僧が著したという『原町岩櫃城記録』(天和3年(1683年))、『再編吾妻記』(享保5年(1720年))、『吾妻軍記』(年代不詳)[39]、町人が著したという『吾妻郡略記』(『吾妻略記』)[40][41]などである。

しかしこれらが書かれた時代は、「吾妻氏」がいたという鎌倉時代からは500年あまりも後代のものであり、何を根拠に書かれたのかは全く不明である。記述を裏付ける証拠は何もなく、これらの書物に対しては、「信頼には足りない[42]」「どの辺まで信用してよろしいか誠にわからない[29]」「もちろん信ずるわけにはいかない[43]」「全面的に信じがたい[33]」「史料として信頼できるのは『吾妻鏡』の記事のみ[33]」といった評価が下されている。

いくらか信頼性を評価されているものとしては、元沼田藩藩士が著した『加沢記』がある。この文献は、執筆当時存在したという数多くの史料を引用していて、その史料のいくつかは現存して照合が行われており、一定の信頼性が認められている[44][45][46]。しかし、現存しない史料も多くあるため、『加沢記』を全面的に信用することもできない[45]

近代以降の研究としては、旧原町(のちに合併して吾妻町を経て東吾妻町となる)の役場に所蔵されていた『原町地誌』(1894年(明治27年)再補)があげられる。この文献では吾妻四郎助光の父を「吾妻太郎助亮」とし、さらにその父祖を、「吾妻権守兼成」「吾妻権守上野介兼助」などと遡ると藤原秀郷に至るとしている[2]。ただしこの記述は『尊卑分脈』に合致しないほか、江戸時代の諸伝とも辻褄が合わない[2]

『加沢記』

[編集]

江戸時代に元沼田藩藩士が書いたのが『加沢記』である[44][46]。その「岩櫃城由来之事 並 吾妻太郎殿 附 吾妻三家之事」という章に吾妻氏の来歴が示されており、吾妻四郎助光の言及がある[7]

遠江守為憲より五世にして維光の二男維元、始て吾妻郡を賜ひ太田庄に居住有て吾妻太郎と申けり。是より子孫代々吾妻郡太田、長田、伊参(いさま)の郡を守護して繁昌し給ひけるが維元より四代の孫四郎助光のときにあって、承久癸未年六月の乱に北条義時の催促に随て宇治川の合戦に溺死給し(以下略) — 加沢平次左衛門『加沢記』「岩櫃城由来之事 並 吾妻太郎殿 附 吾妻三家之事」 、国立国会図書館デジタルコレクション加沢記』、コマ番号14-15

この記述に従えば、藤原南家藤原為憲の子孫が吾妻氏の初代「吾妻太郎維元」である。吾妻氏は代々上野国吾妻郡を領知したという。その4代目が「四郎助光」である。しかし、四郎助光は承久の乱(1221年)の際、鎌倉幕府軍の一員として西へ向かう途上、宇治川の合戦で溺死したのだという[47]。『加沢記』とは違い、尾張国で戦死したとする伝もある[5]

吾妻氏のルーツについては他の文献では異説・異伝がある。藤原北家の末裔とする伝や清和源氏の子孫とする伝があるほか、これらの名族がルーツではないという説があるものの、いずれも根拠に欠き確実なものはない[1][12]

『加沢記』では、助光が戦死した後の吾妻氏のことも触れられている。これによると、吾妻四郎助光の死後、重臣の大野氏・塩谷氏・秋間氏が主家を事実上乗っ取って、三家で吾妻氏の領地を分け合ってしまったという[7]

『原町地誌』

[編集]

明治24年(1891年)の旧原町(後の東吾妻町)による『原町地誌』には次のようにある[48]

下野押領使藤原秀郷三代孫従五位下左馬允兼光七代孫兼助(吾妻権守上野介と称す)其子兼成(吾妻権守と称す)兼成八代の孫吾妻太郎助亮建久六年以降在城す。後助亮尾張國にて戦死し、その子助光嗣いで我妻四郎と号す。助光故あり滅亡して城破壊す。(之を前吾妻氏と称す)

— 『原町地誌』(群馬縣吾妻郡誌, p. 1092)

しかし『原町地誌』の記述が何に基づいているかは不明である[48]

吾妻四郎助光と妖怪

[編集]

吾妻四郎助光の死因を妖怪の祟りとする伝承もある。この伝承では、吾妻四郎助光は岩櫃城の城主となっている。その岩櫃城や城下に「ヨウケツ(ヨウゲツ、妖訣)」という妖怪が出没、吾妻四郎助光もその祟りにより殺され、吾妻氏も断絶してしまったという[12][5]

前吾妻太郎の御子孫代々岩櫃在城なり頃は人皇八十五代後堀河の後宇武将は鎌倉右大臣源実朝公の御代建暦元年の前後爰に当国の住人我妻四郎祐光朝臣と申して岩櫃の城郭に住して益繁昌たり然而祐光朝臣武道の嗜名誉の弓取也東鑑十八に曰実朝公御前にて吾妻四郎弓箭の手柄有之武勇を顕したり其後鎌倉頼経将軍並久明親王の御代吾妻四郎祐光寸善尺魔の障化有り既に祐光の運命断絶の時節かあたかも天の罰する所か仁治年中の頃より建長年中迄か岩櫃の山に妖夬といへる化け物夜な夜な障化をなす事偏に狗旻天狗の妖か又鬼畜の顰か魔生に犯されつゝ城中各及兇事もの也(以下略)

— 『再編吾妻記』(『吾妻史料集 下巻』pp.85-86所載)

吾妻四郎助光を死に至らしめた「ヨウケツ」は、妖怪ではなく山賊だとする伝もある。妖怪とは明言せず、原因不明だが城内で起きた騒乱のために吾妻四郎助光が死んだともいう。妖怪「ヨウケツ」は、吾妻四郎助光の治世が乱れて城下が乱れたことの隠喩であるとする者もいる[49]

この妖怪譚に、後日談が続くバリエーションもある。源頼朝の重臣に藤原北家の藤原行平という人物がおり、妖怪「ヨウケツ」を退治するため、息子で下河辺荘下総国葛飾郡[注 16])の庄司である藤原行家(下河辺行家)を岩櫃へ派遣した[53]。藤原行家は「ヨウケツ」を討伐すると、その功で吾妻郡を与えられた[53][注 17]。このとき、吾妻家では唯一、吾妻四郎助光の娘が生き残っていたので、この娘を藤原行家の息子の行重と結婚させた[53]。以後、藤原行家は吾妻太郎行家と名乗り、息子には吾妻太郎行重と名乗らせたという[53][49]。これにより吾妻氏は再興された[53]。行重の子に吾妻太郎行盛が出たとも云う[53][注 18]

ただし、これらの伝承にみられる「藤原行平(下川辺行平)」「行家」「行重」「行盛」という系図を裏付けるような確かな史料はなく、あくまでも伝説に過ぎない[12][1]。現代的な研究では、岩櫃城の建築時期は南北朝時代以降と考えられており、鎌倉時代に「吾妻四郎助光が岩櫃城主だった」というのも時代が合わない[12][注 19]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 前吾妻氏のルーツについては諸説あり定まらない[1]藤原北家魚名流)の藤原秀郷の系統で下河辺氏の出自とする説[1][2]藤原南家藤原乙麻呂藤原為憲の庶流で武蔵国二階堂氏の系統とする説[1][3][2]清和源氏源基国の分枝とする説[1]、名族の出ではなく古代吾妻国におかれた(市代牧、現在の中之条町市城一円[4])の牧監の子孫とする説などがある[2]
  2. ^ 岩櫃城の築城時期については諸説あり定まらない。本項で述べるように、鎌倉時代に築城されたという伝説がある。城の構造などからは、南北朝時代以降であるとされている。確かな史料に登場するのは戦国時代である。築城主も不詳だが、吾妻氏が鎌倉時代に築いたとする伝承、吾妻氏もしくは斎藤氏が南北朝時代に築いたとする伝承、斎藤氏が戦国時代に築いたとする説、真田氏が戦国時代に築いたとする説などがある[10]
  3. ^ 同時期、吾妻郡西部は海野氏海野幸氏が統べていた[9]
  4. ^ 岩櫃城が位置する吾妻郡東吾妻町(旧原町)では、『吾妻鏡』以前の「史実を考うべき資料は未だ一つも発見されない[12]」(『原町誌』)とし、西吾妻地方の長野原町では元禄時代以前のことは「ほとんど史実的には不明である[13]」(『長野原町誌』)としている。例外的な断片史料としては、貞観4年(862年)4月10日の太政官符に「上毛野坂本朝臣直道」が「吾妻郡擬領」(吾妻郡の臨時の郡司)としたものがある[8]
  5. ^ 平安時代の『和名類聚抄』には、吾妻郡の3郷の名が掲載されている。しかし3郷はいずれも東吾妻地方の名久田川流域(中之条盆地)に比定されていて、西吾妻地方についての言及はない[14]
  6. ^ 中右記』には1108年の浅間山大噴火が記録されており[15]、上野国は「国内田畠これより已にもって滅亡す」などとしている[16]
  7. ^ 鎌倉時代末期、下野国足利氏と、上野国新田氏が中心となって鎌倉幕府打倒を果たした。まもなく、鎌倉の支配権をめぐって足利氏と新田氏が対立[18]、関東地方の武士をひろく味方につけた足利氏と、朝廷を味方につけた新田氏との争いに発展した[18][19]南北朝時代)。結局、新田氏は敗れ、その本拠だった上野へ足利氏が侵攻[20]、上野国にいた新田氏の一族やその家臣団の多くは、上野国を追われて各地へ転出していくことになった[21]。一部には、足利氏について生きながらえた者や[22]、上野国に残って抵抗を続けた者もいた[23]。足利氏は、旧新田領である上野国の新田氏勢力を駆逐するため重臣の上杉憲房を上野国守護に据え、新田氏系の残党狩りを行わせた[24]。半世紀後には上野国は足利氏・上杉氏によって掌握されることになった[23]。上野国西部では、小幡氏安中氏など、上杉氏に従う新興武士団がうまれた[25]。しかしその後、関東地方では永享の乱享徳の乱などの騒乱が続き[26]、戦国時代までに上野国を本拠とする上杉氏は凋落していった[27]
  8. ^ 『吾妻鏡』建久6年(1195年)3月10日の条では、吾妻氏は渋川氏(渋川市)・那波氏(伊勢崎市)と並んでいる[12]
  9. ^ この文書は23枚から成っていて、「岩下衆」はその4枚目の後半から始まる。ところが岩下衆として「斎藤越前守」「山田」の2氏の名を挙げたところで4枚目の紙が終わり、5枚目に移るのだが、5枚目は別地域の新田一族の列記の途中から始まっており、4枚目と5枚目の間に何ページかの脱落があると考えられている。仮に1枚の脱落があると仮定すると、1ページには20名程度の名前が列記されるはずで、そこには東吾妻地方の諸将の名と「新田衆」の見出しがあるはずである。しかしそこを欠くために、この年代でも東吾妻地方の詳細はまだ不明な部分が多い[10]
  10. ^ 吾妻四郎助光に限らず、行列に加わらなかった御家人はほかにもいたという[5]。ただし、助光以外の者は病気や服喪などを理由として申し立てていた[33]
  11. ^ 加沢記』は吾妻氏の出自を二階堂氏の傍系とするが、裏付けには欠く。[2]
  12. ^ 建永2年10月に改元があり、承元元年となる。[35]
  13. ^ アオサギを怪異(鷺怪)とみなしたため。『吾妻鏡』ではサギは凶事の前触れとして扱われており、全巻を通じて4回サギが登場し、その全てが怪異とされている[36]。この承元元年(1207年)の例のほかは、和田合戦(1213年)、寛喜の飢饉(1230年)、北条時宗邸への飛来(1263年)の3例である[36]
  14. ^ 「助光顚衣」[33]
  15. ^ そもそも『吾妻鏡』には吾妻氏の所領に関する言及が一切ないため、吾妻郡を支配していたのかどうかさえわからない[12]。上述の様に、『吾妻鏡』の各所で吾妻氏の名が上野国の御家人の中に並んでいることから、吾妻氏も上野国の御家人と考えるのが一般的である[38]。吾妻地方については、吾妻四郎助光よりも一世代後代の言及であるが、建長2年(1250年)に海野幸氏が西吾妻地方の支配を認められたという記述がある[11]
  16. ^ 下河辺荘は古利根川と江戸川に挟まれた地域に相当する。室町時代の古河公方が置かれた地でもある。江戸時代の河川改修によって河川の流路が大きく変えられており、概ね現在の茨城県南西部(古河市など)、埼玉県東部(北葛飾郡栗橋町(合併によ久喜市の一部)・春日部市松伏町など)、千葉県北西部(野田市など)にまたがる。[50][51][52]
  17. ^ 「ヨウケツ」を妖怪ではなく山賊とする場合もある[53]
  18. ^ 吾妻氏を「前吾妻氏」「後吾妻氏」に区分する場合もあるが、その区分方法は文献により異なる。一つは、『吾妻鏡』にみえる「八郎」「太郎」「四郎助光」を「前吾妻氏」とし、「行家」「行重」「行盛」らを「後吾妻氏」とするものである[53]。伝説では、この吾妻太郎行盛は南北朝時代に南朝方の里見氏の攻撃によって敗死し、のちに遺児の千王丸が斎藤姓を名乗り、斎藤憲行として里見氏を討って岩櫃城を奪還したという。この斎藤憲行以下を「後吾妻氏」と呼ぶ文献もある[54][11]
  19. ^ 『上野武士団の中世史』(1996年)や『戦国上野国集事典』(2021年)の著者で、群馬県文化財保護審議会専門委員の久保田順一は、史料に永禄6年(1563年)以前に岩櫃城に言及したものが無いことからそれ以前に岩櫃城が存在したことを否定する説が有力だと認めつつ、武田氏・真田氏による岩櫃城築城に先んじて、同地に何らかの拠点があったことは想定可能だとした。[55]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 『群馬新百科事典』p16「吾妻氏」
  2. ^ a b c d e f 『吾妻史帖』pp.40-47「吾妻氏の出自」
  3. ^ 『戦国上野国集事典』p.38
  4. ^ 群馬縣吾妻郡誌, p. 672.
  5. ^ a b c d e f g h i 『原町誌』pp.661-663「吾妻四郎助光」
  6. ^ a b c d 講談社,『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(2015年),コトバンク版,2019年1月1日閲覧。
  7. ^ a b c 『加沢記 : 附・羽尾記』、国立国会図書館デジタルコレクション14-15コマ目「岩櫃城由来之事 並 吾妻太郎殿 附 吾妻三家之事」
  8. ^ a b c d 『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p153「吾妻郡」
  9. ^ a b c d 『吾妻史帖』pp.12-13
  10. ^ a b c d 『吾妻史帖』pp.75-82「関東幕注文」
  11. ^ a b c 『吾妻史帖』p19
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『原町誌』pp.52-59「八 吾妻氏と原町」
  13. ^ 『長野原町誌』上巻p105
  14. ^ 『吾妻史帖』p40
  15. ^ 『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p41
  16. ^ 『上野武士団の中世史』pp.3-5「浅間山の大噴火」
  17. ^ 『上野武士団の中世史』pp.137「上野の戦国時代」
  18. ^ a b 『上野武士団の中世史』pp.75-77「建武政権と義貞」
  19. ^ 『上野武士団の中世史』pp.77-80「義貞の没落」
  20. ^ 『上野武士団の中世史』pp.80-81「上野国内の戦い」
  21. ^ 『上野武士団の中世史』pp.81-83「南朝と新田一族」
  22. ^ 『上野武士団の中世史』pp.85-87「室町幕府と新田一族」
  23. ^ a b 『上野武士団の中世史』pp.83-85「観応の擾乱以後の新田一族」
  24. ^ 『上野武士団の中世史』pp.100-101「上野守護職と上杉氏」
  25. ^ 『上野武士団の中世史』pp.130-132「西上州の武士団」
  26. ^ 『上野武士団の中世史』pp.109-108「関東の戦乱と上杉氏」
  27. ^ 『上野武士団の中世史』pp.111-113「憲房から憲政へ」
  28. ^ 『吾妻史帖』pp.17-62「『吾妻鏡』にみる吾妻の武士たち」
  29. ^ a b c d 『原町誌』p17
  30. ^ 『原町誌』pp.660-661「吾妻太郎」
  31. ^ 『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p176「岩櫃城跡」
  32. ^ 日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬』pp.334-337「岩櫃城」
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『吾妻史帖』pp.52-56「弓の名人吾妻四郎助光」
  34. ^ 『国史大辞典』p.63「吾妻郡」
  35. ^ 『普及版 日本年号史大事典』p356「承元」
  36. ^ a b 池田浩貴 2015.
  37. ^ a b c d 『戦国史話 岩櫃城風雲録』pp.52-53
  38. ^ 『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p42「上野守護と御家人」
  39. ^ 『原町誌』pp.674-675「西山円聖」
  40. ^ 『原町誌』pp.675-677「上原政右衛門代完」
  41. ^ 『原町誌』pp.801-802「長福寺の五輪塔 ―吾妻太郎の墓じるし」
  42. ^ 『上野武士団の中世史』pp.24-25「上野武士の去就」
  43. ^ 『長野原町誌』上巻p110
  44. ^ a b 『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p811「加沢記」
  45. ^ a b 富澤.佐藤(2011).
  46. ^ a b 『群馬新百科事典』p137「加沢記」
  47. ^ 『戦国史話 岩櫃城風雲録』p.55
  48. ^ a b 群馬縣吾妻郡誌, p. 1091-1094.
  49. ^ a b 『原町誌』pp.626-633「岩櫃城址」
  50. ^ 小学館日本大百科全書 ニッポニカ』「下河辺荘」(JapanKnowledgeで閲覧)
  51. ^ 小学館『世界大百科事典』「下河辺庄」(JapanKnowledgeで閲覧)
  52. ^ 小学館『国史大辞典』「下河辺庄」(JapanKnowledgeで閲覧)
  53. ^ a b c d e f g h 『戦国史話 岩櫃城風雲録』pp.117-121
  54. ^ 『吾妻史帖』p14
  55. ^ 『戦国上野国集事典』p.45-47「岩下城と岩櫃城」

書誌情報

[編集]
史料
  • 加澤平次左衛門『加沢記 : 附・羽尾記』上毛郷土史研究会、1925年。doi:10.11501/1020961全国書誌番号:43048437https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961 
市町村史誌
事典類
郷土資料
  • みやま文庫152『吾妻史帖』、唐沢定市・編、みやま文庫、1998年
一般書
  • 『戦国上野国集事典』、久保田順一・著、戎光祥出版・刊、2021年。ISBN 978-4-86403-405-0
論文