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呉羽紡績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
呉羽紡から転送)
呉羽紡績株式会社
種類 株式会社
設立 1929年創業-1966年合併消滅
事業内容 紡績業
資本金 1,000万円
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呉羽紡績株式会社(くれはぼうせき、1929年-1966年)は、かつて存在した日本紡績会社である。大日本紡績連合会会員会社。いわゆる十大紡の一つであり、後に同じく十大紡の東洋紡績(現:東洋紡)と合併

株式会社クレハは、呉羽紡績の一部門が独立して発足した会社である(呉羽化学工業株式会社)。

概要

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1929年(昭和4年)に富山紡績(1921年創業、資本金230万円)の増資に際し新会社として設立された[1]7月12日創立総会開催。主な発起人2代目伊藤忠兵衛、富山紡績関係者、また児玉一造豊島久七浅野総一郎松岡潤吉岸本吉左衛門平生釟三郎森村市左衛門、その他綿業関係者らであった[注釈 1][注釈 2][注釈 3]。資本金1千万円。本店所在地は大阪市東区安土町2丁目51、取締役社長は伊藤忠兵衛、専務取締役に井上富三、取締役 に泉弥市、豊島久七豊田利三郎、山田昌作、松岡潤吉、古橋林司、小島逸平、岸本吉左衛門、監査役に伊藤竹之助早瀬太郎三郎大林義雄、田中栄八郎、平生釟三郎

またこの年には、大日本紡績連合会の反対により未施行となっていた女性の深夜業禁止規定(1911年工場法)が施行された。

富山県婦負郡呉羽村の第1工場は、75,000の敷地を買収して36,300と全自動織機を192台導入した。同県上新川郡熊野村の第2工場はイギリス製のフラット紡機を使用し、イギリス領インド帝国向けの三巾金巾など織物の製造を行った。

1937年(昭和12年)には呉羽井波福野大門庄川の5工場を運営し、さらに最新設備に投資したうえ[3]賃金増額の一環として日本団体生命保険に加入した(従業員約1万人、保険金230万円)[4]

1942年(昭和17年)には商工省の指定により化学工業統制会のメンバー会社の1つになった[5]

沿革

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呉羽紡績の伊東絹子起用絵葉書(1953年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 岸本吉左衛門はイギリス系鉱山事業家範多範三郎(ハンス・ハンター)と親交があったと言われている。[1]
  2. ^ 豊島久七はのち1939年には日東紡績の役員で日印会商の顧問。[2]
  3. ^ 松岡潤吉は松岡汽船の創業者で娘婿が東宝の社長松岡辰郎

出典

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  1. ^ 大阪朝日新聞 1929.
  2. ^ 大阪時事新報 1939.
  3. ^ 中外商業新報 1937.
  4. ^ 東京日日新聞 1937.
  5. ^ 大阪朝日新聞 1942.
  6. ^ a b c 呉羽紡績(株)『呉羽紡績30年 : 1929-1959』(1960.05) 渋沢社史データベース
  7. ^ 『大門町史 続巻』(2005年9月15日、大門町発行)22頁。
  8. ^ 『大島村史』(1963年9月30日、大島村役場発行)512頁。
  9. ^ 『大島村史』(1963年9月30日、大島村役場発行)525頁。
  10. ^ a b c 『大島町史』(1989年11月3日、大島町発行)131頁。
  11. ^ a b c 呉羽紡績30年, p. 371.

参考文献

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関連項目

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