コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

周樹模

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
周樹模
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1860年咸豊10年)
死去: 1925年民国14年)
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 湖北省安陸府天門県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 周樹模
簡体字 周树模
拼音 Zhōu Shùmó
ラテン字 Chou Shuh-mo
和名表記: しゅう じゅも
発音転記: ジョウ シューモー
テンプレートを表示

周 樹模(しゅう じゅも、繁体字: 周樹模; 簡体字: 周树模; 繁体字: 周樹模; 拼音: Zhōu Shùmó; ウェード式: Chou Shuh-mo)は、末・中華民国の政治家。少樸孝甄。号は沈観

事績

[編集]

湖北経心書院で学び、1885年(光緒11年)、乙酉科挙人となる。1889年(光緒15年)、己丑科進士となり、翰林院編修の地位を授かった。1891年(光緒17年)、広東省副主考となり、1894年(光緒20年)には会試同考官に任ぜられている。1896年(光緒22年)、湖広総督張之洞の招聘に応じてその幕僚となり、唐心口堤防の修築工事を担当した。1902年(光緒28年)、都察院御史に転じ、1905年(光緒31年)、五大臣のイギリス訪問に随行している。[1]

帰国後は江蘇省提学使に任命され、1908年(光緒34年)4月には黒竜江巡撫左参賛に移った。翌1909年宣統元年)3月に巡撫の程徳全が病気辞任したため、周が巡撫を暫時署理し、同年7月に正式に巡撫に任命されている。1911年(宣統3年)、会弁塩務大臣となり、更に中俄勘界大臣も兼任した。同年11月、辛亥革命の機に黒竜江省で保安会が成立すると、その会長に就任している。[1]

中華民国成立後の1914年民国3年)5月、北京政府平政院院長[2]に起用され、同年11月には高等文官懲戒委員会委員長も兼ねた。翌1915年(民国4年)10月、病気のため一時辞職するが(後任として銭能訓が署理)、1916年(民国5年)7月に院長、9月に懲戒委員会委員長にそれぞれ復帰している。1917年(民国6年)2月に院長を、同年8月に委員長をそれぞれ辞任した[3]。以後、北京市天津市に寓居した。1925年(民国14年)9月28日、天津市で病没。享年66[1]

[編集]
  1. ^ a b c 徐主編(2007)、938頁。
  2. ^ 平政院とは、行政訴訟と弾劾の両権能を備えた機関である。粛政庁(官吏に対する監察・検察を担当)などを管轄した。郭主編(1990)、95頁。
  3. ^ 郭主編(1990)、95-96頁。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
汪大燮
平政院院長
1914年5月 - 1915年10月
次代
銭能訓(署理)
先代
銭能訓(署理)
平政院院長
1915年10月 - 1917年2月
次代
熊希齢