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周顗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

周 顗(しゅう ぎ、269年 - 322年6月24日[1])は、西晋から東晋にかけての官僚軍人伯仁本貫汝南郡安成県

経歴

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西晋の安東将軍周浚の子として生まれた。若くして名声があり、賁嵩や戴淵らに賞賛された。弱冠にして父の武城侯の爵位を嗣ぎ、秘書郎に任じられ、尚書吏部郎に累進した。東海王司馬越の子の司馬毗が鎮軍将軍となると、周顗はその下で鎮軍長史をつとめた。

琅邪王司馬睿が江南に入ると、周顗は召し出されて軍諮祭酒となった。寧遠将軍・荊州刺史・領護南蛮校尉・仮節として出向した。永嘉5年(311年)、湘州杜弢の乱が起こった。建平郡の流民の傅密らが杜弢を迎え入れると、周顗は狼狽して拠点を失った。陶侃が部将の呉寄に兵を与えて救援させると、周顗は脱出して、豫章の王敦のもとに逃れた。王敦は軍司の戴邈の反対にもかかわらず、周顗を引き留めた。後に揚威将軍・兗州刺史として司馬睿に召し出された。周顗が建康に入ると、司馬睿は周顗を引き留めて兗州に派遣せず、再び軍諮祭酒とした。まもなく右長史に転じた。建武元年(317年)、東晋が建てられると、周顗は吏部尚書に任じられた。ほどなく酒に酔って御史の糾弾を受け、官位を剥奪され、無官のまま吏部の職をつとめることになった。さらに門生が人を傷つけた罪に連座して、職官からも罷免された。

大興元年(318年)、尚書・太子少傅に任じられた。大興3年(320年)、尚書僕射となった。

永昌元年(322年)、吏部を領したまま、尚書左僕射となった。同年4月に王敦の乱が起こり、王敦が石頭城を占拠すると、周顗は戴淵・劉隗らとともに石頭城を攻撃して大敗した。周顗は元帝(司馬睿)の命を受けて王敦と会見した。周顗は戴淵とともに王敦に捕らえられ、石頭城の南門の外の石上で殺害された。享年は54。

太寧2年(324年)、王敦の死後、周顗は左光禄大夫・儀同三司の位を追贈された。は康といった。

子女

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  • 周閔(字は子騫。衡陽郡建安郡臨川郡太守を歴任し、侍中・中領軍・吏部尚書・尚書左僕射となり、中軍将軍の号を加えられた。護軍に転じ、秘書監を兼ねた)
  • 周恬
  • 周頤

伝記資料

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脚注

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  1. ^ 房玄齡 (中国語). 《晉書‧卷六‧帝紀第六‧中宗元帝》. "丙子,驃騎將軍、秣陵侯戴若思,尚書左僕射、護軍將軍、武城侯周顗為敦所害。敦將沈充陷吳國,魏乂陷湘州,吳國內史張茂,湘州刺史、譙王承並遇害。"