和光荘
和光荘 Wakoso Residence | |
---|---|
ホテル概要 | |
設計 | 野口喜一郎、佐立忠雄 |
運営 | 和光産業→北海ホテル→北の誉酒造→元大夕張鹿鳴館 |
所有者 | 野口禮二(2009年 - ) |
階数 | 地上1階 - 地上4階 |
敷地面積 | 約16500 m² |
開業 | 1948年 |
閉業 | 1966年 |
最寄駅 | 南小樽駅 |
最寄IC | 札樽自動車道 小樽IC |
所在地 |
〒047-0002 北海道小樽市潮見台2丁目4-1 |
位置 | 北緯43度10分37.85秒 東経141度0分27.29秒 / 北緯43.1771806度 東経141.0075806度座標: 北緯43度10分37.85秒 東経141度0分27.29秒 / 北緯43.1771806度 東経141.0075806度 |
公式サイト | [小樽 和光荘 公式サイト] |
和光荘(わこうそう)は、北海道小樽市の洋館であり、同市にかつて存在した酒造会社・北の誉酒造の2代目社長である野口喜一郎の自邸。野口自らが佐立忠雄(佐立七次郎の子)の助言のもとに設計し[1]、7年がかりで1922年(大正11年)に竣工した[2]。
パリに端を発するアール・デコの幾何学的な装飾を基調とする洋風のデザイン、野口の父・野口吉次郎(北の誉酒造創業者)の郷里である金沢市の伝統的な建築技術を取り入れた和室などの組合せや[3]、全国の歴史的建造物にもみられる小川三知によるステンドグラスなど、様々な装飾品が特徴とされる[4][5]。
もとは個人住宅であったが、1948年(昭和23年)に和光産業によりホテルとして開業され、1950年(昭和25年)に北海ホテルが、1956年(昭和31年)には北の誉酒造が買収した[6]。1954年(昭和29年)には昭和天皇夫妻の北海道巡幸に際しての宿泊所としても利用され、1958年(昭和33年)には第125代天皇上皇明仁が皇太子時代に宿泊した[7]。その後、経営難により1966年(昭和41年)にホテル業を廃業した[6]。
北の誉酒造は2015年(平成27年)にオエノンホールディングスに吸収されたが、和光荘は2009年(平成21年)に野口の孫の野口禮二(北の誉酒造の4代目社長、後に不動産会社・秀映社社長)が北の誉酒造から買い取って以来[8]、北の誉の経営から離れた野口家が所有するため、オエノンHDの方針の影響を受けずに現存し[9]、建物の外装・内装だけでなく、書籍やニップゲームなどがそのまま保管されている。同2015年4月から予約制・有料で公開され、見学を受け付けていた[1]。
2018年には中国系企業「元大夕張鹿鳴館」が本施設を買収し再活用を行う方針としたが、2019年時点では閉鎖されている[10][11]。
脚注
[編集]- ^ a b 「大正ロマン漂う小樽の歴史的建造物「和光荘」初公開へ」『北海道新聞』北海道新聞社、2015年4月10日、樽A朝刊、26面。
- ^ 本多貢「おたる商人の世紀 辛抱 無給3年、待望の独立」『北海道新聞』1995年8月18日、樽B朝刊、25面。
- ^ “和光荘”. おたるぽーたる. 小樽観光協会. 2018年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月6日閲覧。
- ^ 東田秀美「北の建物 守り育てる 小樽・和光荘 和洋折衷 優雅な邸宅」『北海道新聞』2014年1月27日、全道朝刊、17面。
- ^ 松橋常世「アート万華鏡 お題は…美は細部に宿る 小川三知と和光荘」『北海道新聞』2014年11月3日、全道朝刊、7面。
- ^ a b “第6章 野口と寿原 その2”. 小樽商人の軌跡. 小樽商工会議所. 2018年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月6日閲覧。
- ^ 島口暉生「小樽西洋建築めぐり 和光荘 1922年(大正11年)」『北海道新聞』1997年9月5日、圏A夕刊、20面。
- ^ 野口禮二「会員卓話「家業について」」『小樽ロータリークラブ会報』第3843号、小樽ロータリークラブ、2012年10月16日、2頁、2018年5月6日閲覧。
- ^ 山岡正和他「北の誉酒造 工場と「酒泉館」閉鎖へ 創業の地 惜しむ声」『北海道新聞』2015年10月16日、樽A朝刊、24面。
- ^ 夕張のホテルを買収した中国人経営者の勘とは - Wedge Infinity(2018年8月26日)
- ^ 中国に買われる北海道…小樽の由緒ある建物も続々と 外資の土地買収“絶望的”実態 - iZa(2019年10月12日)
外部リンク
[編集]- 公式ウェブサイト - 2021年1月16日時点のアーカイブ