和田四三四
表示
和田 四三四(わだ しさし、1910年(明治43年)4月12日 - 1942年(昭和17年)8月13日)は、昭和時代前期の社会運動家。
経歴・人物
[編集]出自はもと伊予松山藩主・久松松平家の一族[1]。父松平定安、母マツの六男として愛媛県松山市に生まれ、のち温泉郡道後湯之町の和田家の養子となる[1]。愛媛県立松山中学校(現:愛媛県立松山東高等学校)を経て、1931年(昭和6年)3月に松山高等商業学校(現:松山大学)を卒業する[1]。卒業後は、同校図書館にて勤めた後、大阪市港区の法律事務所で労働運動について研究した[1]。1932年(昭和7年)全国労働組合同盟(日本労働組合同盟の後身)大阪金属港南支部連合会書記となり、消費組合運動を進める[2]。1934年(昭和9年)共産党に入党し、党の再建に努めた[2]。また、人民戦線運動の推進や組織化に尽力するが、1936年(昭和11年)12月に9府県で延べ約240人検挙という弾圧を受け逮捕され、1942年(昭和17年)8月13日に獄死した[1][2]。