和田高家
時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
主君 | 後醍醐天皇→後村上天皇 |
氏族 | 河内和田氏(楠木氏同族) |
父母 | 楠木正季? |
和田 高家(わだ たかいえ[注釈 1])は、南北朝時代の摂家で、天皇に尽くした家とされる人物。
概要
[編集]江戸時代に編修された『群書類従』版『橘氏系図』によれば、楠木正氏(正季)の息子の四兄弟中の次兄で、和田賢秀らの「兄」であり、正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いで楠木正行のもと戦って戦死したとされる[1]。
しかし、『園太暦』などの一次史料で四條畷の戦いを記した箇所には登場しない[2]。また、『群書類従』より古い『尊卑分脈』版『橘氏系図』では「正氏」の息子は行忠(新兵衛尉)と和田賢快(新発)のみであり、高家に相当する人物がいない[3]。
また、軍記物『太平記』巻26の四條畷の戦いには基本的には登場しないが、諸写本のうち唯一、毛利家本のみ和田賢秀の「弟」の名前を高家としている[4]。
江戸幕府公式地誌『五畿内志』(18世紀初頭)中の『和泉志』によれば、和田高遠と楠木正成の妹の息子である和田正遠の長男であり、弟が和田正武であるという[5]。この説だと楠木正成が祖父となり、正季は遠い親戚となる。
このように、高家が登場する書籍でも記述がバラバラであり、実在性が不明瞭である。
岸和田の発祥?
[編集]陽翁の創作物『太平記評判秘伝理尽鈔』(1600年前後?)では、正慶2年(1333年)に正成が摂津・河内・和泉の三国を賜ると、正成は「和田信三郎」という人物に和泉守を譲り、その後「和田新兵衛尉高家」という人物が和泉国の岸和田城に籠城したという記述がある[6]。
『太平記評判秘伝理尽鈔』の記述を元に、石橋直之『泉州志』(元禄13年(1700年))は、和田高家は「岸村」と呼ばれている所に城(後の岸和田古城)を築き、地名と高家の苗字の和田が合わさり、同地が岸和田と呼ばれるようになったなどとした[6]。また、高家の息子が和田正武であるという[6]。
しかし、山中吾郎・辻陽史らの調査の結果、和田高家が岸和田の由来の人物とするのは『太平記評判秘伝理尽鈔』『泉州志』にまでしか辿れない上に、その時代に岸和田古城が実在したかどうかすら疑問視されている[6]。発掘調査によれば、岸和田古城が築かれたのは高家の時代から150年以上後の15世紀後半である[7]。
また、岸和田という地名の由来についても、同じ南朝武将で一次史料から実在が確実な岸和田治氏(もしくはその親族)を発祥とする方が有力視されている[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 経済雑誌社 編「橘氏系図」『群書類従』 4巻、経済雑誌社、1893年、222–230頁。doi:10.11501/1879789。NDLJP:1879724 。
- 藤原公定 編「橘氏系図」『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』 11巻、吉川弘文館、1903年。doi:10.11501/991593。NDLJP:991593 。
- 東京帝国文科大学史料編纂掛 編「正平3年/貞和4年1月5日条」『大日本史料 第六編之十一』東京帝国大学、1912年、279-330頁。doi:10.11501/782849。NDLJP:782849 。
- 長谷川端 編『太平記』 3巻、小学館〈新編日本古典文学全集 56〉、1997年4月20日。ISBN 978-4096580561。
- 福田栄次郎「和田氏 わだし (二)」『国史大辞典』吉川弘文館、1997年。
- 『日本歴史地名大系』平凡社、2006年。
- 辻 陽史「護持山朝光院天性寺所蔵『天性寺聖地蔵尊縁起』の成立過程-地蔵菩薩の利生譚から岸和田城史譚へ」、『國文學』99巻、関西大学国文学会 pp. 69–89