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哀章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

哀 章(あい しょう、? - 23年)は、中国代の武将・政治家。王莽配下の人物。益州広漢郡梓潼県の人。

元はただの学問の徒であったが、王莽にとりいり、その皇帝即位を促すための天命を伝える符命を偽造した。新王朝を建国し、皇帝に即位した王莽に取り立てられ、その重臣である四輔の一人となった。

その後は反乱軍の討伐に向かい、王莽に命じられ洛陽を守ったが、王莽の死後、更始帝の軍に洛陽を攻められ、捕らえられて処刑された[1]

事跡

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王莽即位を支援

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姓名 哀章
時代
生没年 ? - 23年地皇4年)
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 益州広漢郡梓潼県
職官 国将〔新〕
爵位・号等 美新公〔新〕
陣営・所属等 王莽
家族・一族 〔不詳〕

最初は長安で学問を行っていたが、平素から行いが悪く、大法螺を好んだ。

居摂3年(8年)、中国を統治していたは皇帝が即位せず、皇太子の劉嬰(孺子嬰)は赤子であったため、太皇太后王政君とその甥にあたる王莽が漢の実権が握り、王莽が摂皇帝として天子を践祚(代行)して摂政として政治を司っていた。

このため、漢では、「王莽の真意は帝位につくことにある」と、王莽の意思を忖度して、王莽を帝位に付かせる符命(天や天を支配する天帝の意思を伝える「しるし」)[2][3]をつくりあげ、王莽に取り入ろうとするものが相次いでいた。

哀章は、王莽が摂政していると知って、同じように考え、王莽を帝位につかせる功績をあげようと、ひそかに、銅製の匱をつくり、「天帝行璽金匱図」と「赤帝行璽邦[4]伝予黄帝金策書」[5]という、二つの札をつけた。そして、「王莽よ、真天下となれ。皇太后(王政君や王莽の娘である王氏のこと)は命の如くせよ」と書き記した。さらに、二つの札に、王莽の大臣となる8人(王舜平晏劉歆甄邯王尋王邑甄豊孫建)の名を書き、縁起のいい名である王興と王盛の名も書き、さらに哀章自身の姓名も書き記し、総計11人の官爵を書き、「補佐とするように」と書いておいた。

この頃、朝廷では、宗室の広饒侯劉京・車騎将軍の千人(官職名)の扈雲・太保の属吏である臧鴻がそれぞれ「王莽が帝位につくことをうながす」内容の符命を奏上していた。

同年11月、王莽は太皇太后の王政君に上奏し、この符命を理由にして、「摂皇帝」ではなく、「仮皇帝」と呼ばれることとなった。

群臣たちは、王莽が群臣に奏上させて、王莽が真皇帝に即位しようとしているという王莽の真意を悟った。

哀章は、劉京が上奏した符命である斉郡で見つかった井戸や、扈雲の上奏した符命である巴郡で見つかった石牛の話を聞いて、その日に暮れに、黄衣を着て、漢の高祖(劉邦)廟にその匱を持参し、僕射に渡した。僕射が王莽に報告すると、王莽は、高祖の廟にみずから来て、金匱を受け拝した。

王莽は、天帝や漢の高祖の霊からの天命などがくだったものとして、これを機会に、孺子嬰を廃して、自ら皇帝に即位した。国号を新と改め、元号についても同年12月朔日をもって始建国元年と改めている。

始建国元年(9年)正月、王莽は、王政君から伝国璽を受け、符命にしたがって、漢の国号を取り去る[6][7]

哀章がつくった銅製の匱にあった二つの札の記述にもとづいて、王莽によって、新王朝を支える重臣が任じられた。

  • 太傅・左輔・驃騎将軍・安陽侯 王舜は太師に任じられ、安新公に封じられる。
  • 大司徒・防郷侯        平晏は太傅に任じられ、就新公に封じられる。
  • 少阿・羲和・京兆尹・紅休侯  劉歆は国師に任じられ、嘉新公に封じられる。
  • 広漢郡梓潼県の人       哀章は国将に任じられ、美新公に封じられる。

以上の四人が「四輔」とされ、位は「上公」とされた。

  • 太保・後承・承陽侯      甄邯は大司馬に任じられ、承新公に封じられる。
  • 丕進侯            王尋は大司徒に任じられ、章新公に封じられる。
  • 歩兵将軍・成都侯       王邑は大司空に任じられ、隆新公に封じられる。

以上の三人が「三公」とされた。

  • 太阿・右払・大司空・広陽侯  甄豊は更始将軍に任じられ、広新公に封じられる。
  • 軽車将軍・成武侯       孫建は立国将軍に任じられ、成新公に封じられる。
  • 京兆の人           王興は衛将軍に任じられ、奉新公に封じられる。
  • 京兆の人           王盛は将軍に任じられ、崇新公に封じられる。

以上の四人が、「四将」とされた。

また、上記11人を総称して「十一公」とされた[7]

このように哀章は、王莽の新王朝の重臣「十一公」の中でも、最上位にあたる「四輔」の一人となることができた。哀章が「縁起がよい名」という理由で名を二つの札に書いた王興は、もとの城門令史であり、王盛は、餅売りに過ぎなかった。王莽は、(哀章のつくった)符命を見て、王興・王盛という姓名の人物、十数人探し、その二人の容貌が占いや人相の面からよかったため、平民から登用して、その神性を見せつけた[7]

その他の人物は、全て、郎に任じられ、その日に、大夫侍中尚書の官に任じられものはおよそ数百人にのぼり、劉氏の宗族で、太守となっていたものたちは全て異動させた諫大夫に任じた[7]

新代での事跡

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哀章は国将の地位に就いても、やはり昔からの行いの悪さは改まらず、その行いは王莽配下の中でも特に、清々しくなかった。また、諸公(十一公)たちは皆、その親族を軽んじ、いやしんでいた[7]

天鳳元年(14年)3月、そこで、王莽は特に選んで和叔の官(四輔の属官の一つ)を設置し、哀章のために和叔の官に勅命をくだした「ただ、国将の家族を守るだけでなく、西(哀章の故郷である広漢郡梓潼県は西の地にある)の地にいる親族たちも保護するように」[7]

地皇3年(22年)冬、新への反乱勢力が各地で勃興してきた。新の太師の王匡(以下、本記事では「王匡(新)」と表記)・更始将軍の廉丹赤眉軍董憲と戦い、敗北して、廉丹が戦死した[8]

国将であった哀章は王莽に進言した「黄帝の時代に、中黄直(人物名)が大将となり、蚩尤を破って、撃ち殺しました。現在、私は当時の中黄直の位にあります。私を山東平定に向かわせていただきたいのです」。王莽もこれに従い、哀章を東方に派遣して、太師の「王匡(新)」と合流させて、反新の軍に当たらせている[8]

地皇4年(23年)3月、王莽に反乱を起こしていた緑林軍が、劉玄を皇帝に立てた(更始帝)。緑林軍は南陽郡を囲んだ。緑林軍には、劉縯劉秀(後の光武帝)兄弟も参加していた。

3月、王莽は詔を行った「太師の王匡・国将の哀章・司命の孔仁・兗州の寿良・卒正の王閎揚州牧の李聖は速やかに所管の軍と州郡の兵、あわせておよそ30万の軍を率いて、青州・徐州の盜賊[9]を追い詰め捕らえるように。納言将軍の荘尤・秩宗将軍の陳茂・車騎将軍の王巡・左隊大夫の王呉は速やかに所管の軍と州郡の兵、あわせておよそ10万の軍を率いて、前隊[10]の醜虜[11]を追い詰め捕らえるように。降伏したものは生かされるということは明確に告げよ。また、惑うて解散しないものは、皆、力を合わせて攻撃し、せん滅するようにせよ。大司空・隆新公王邑は、宗室の親族であり、かつては虎牙将軍として、東に向かえば、反虜[12]を破り壊し、西を撃てば、逆賊[13]を打ち破った。これ(王邑)は、新室の威を示す宝と言える臣である。狡猾な賊が解散しないなら、すぐに大司空(王邑)を将とする100万の軍に征伐させ、絶滅させるであろう!」。このように、哀章は国将として、王匡(新)らとともに、東方の赤眉の討伐にあたることになった[8]

王莽は、七公に仕えるすぐれた士である隗囂ら72人を天下に分けてつかわし、この赦令を下して教え諭そうとした。しかし、隗囂らは出発した後、逃亡してしまっている[8]

同年5月には、劉縯により宛が陥落し、6月に、昆陽において、劉秀によって、王邑の軍も敗れた(昆陽の戦い)。

同年8月、哀章は王莽に命じられ、王匡(新)とともに洛陽を守備した。更始帝(劉玄)は配下の定国上公王匡 (王匡(新)とは別人)に洛陽を攻撃させ、西の王莽がいる長安へは大将軍申屠建と丞相司直の李松に(長安の南を守る)武関を攻撃させた[14]

同年9月、長安を攻撃された王莽は戦死し、同月に、洛陽を攻撃された哀章と王匡(新)は捕らえられ、更始帝の根拠地である宛へ護送されて処刑されている。

参考文献

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  • 東晋次『王莽―儒家の理想に憑かれた男』(白帝社アジア史選書)、白帝社 、2003.10
  • 渡邉義浩『王莽―改革者の孤独』(あじあブックス)、大修館書店、2012.12

脚注

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  1. ^ 以下、特に注釈がない場合、出典は、『漢書』王莽伝上
  2. ^ 東晋次は、「符命」について、「「符命」とは何か。「符命」の符は、割り符のことである。木の札などを二つに折って、それをあわせて合致することを符合というが、なんらかの権威から与えられた命令や恩恵などを保証する「しるし」であり、符合することによって命令などが明示されることになる。割り符以外の場合、(中略)武功長孟通が得たところの、朱字で「安漢公莽に告ぐ、皇帝に為れ」と書かれた上円下方の白石などは、天命の「しるし」そのものなのである。そうした「しるし」によって明示された天命を「符命」と称するのであるが、それがめでたい「しるし」であることから、祥瑞の意味を込めて「符瑞」ともいわれる」と論じている『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p. 177
  3. ^ 渡邉義浩は「符命は、常に何らかの符瑞と関連して出現することが図讖と比べた際の特徴である。そこには、天命が述べられており、それは符命が王莽の意図を汲んだ者に作為されたことによる。符命は、天命による革命の正統化を担うものと考えてよい」と論じている。『王莽―改革者の孤独』p.106
  4. ^ この邦とは、漢の高祖である劉邦の名
  5. ^ 東晋次は、このことについて、「(先の王莽の上奏文にあるように)「銅符」や「帛図」と呼ばれていることからも、「符」は「図」とも通じ合う。(中略)「金匱図」や「金策書」の「図」と「書」はもちろん予言と関係する。『漢書』五行志の冒頭で班固は、『易経』の「天は象を垂れ、吉凶を見(あら)わす、聖人は之に象(かたど)る。河は図を出(い)だし、洛は書を出だす、聖人は之に則る」を引用し、伏犠氏は河図を授けられてこれを手本として八卦の図案を創作し、禹は治水の功績で洛書を賜り、これを模範にして『尚書』「洪範」を作成した、と述べる。いわゆる「河図洛書」である。『論語』(子罕篇)に、「子曰く、鳳凰至らず、河は図を出さず、我れ已んぬるかな」という孔子の言葉があるが、これは聖天子が此の世に存在しないことから、鳳凰が現れたり、黄河から図が出現しないことを嘆いたものなのである。鳳凰などが現れることは、聖天子出現の前兆つまり祥瑞として考えられた。秦漢時代では、善政の証拠としての鳳凰や麒麟のような瑞獣の出現が信じられ、神秘思想としての祥瑞思想も災異思想とともに盛んになっていたのである。(中略)災異も祥瑞も現実の政治のよしあしに対する天の判定をあらわすだけでなく、未来に生起する事柄の兆しを示すものである、という考えた方が生まれてきていた。予告ないし予兆といわれる未来予言の思想である。(中略)前漢後半期においては「讖緯」と呼ばれる未来予言の思想的な活動が活発となる」と論じている『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p. 178-180
  6. ^ 『漢書』元后伝
  7. ^ a b c d e f 『漢書』王莽伝中
  8. ^ a b c d 『漢書』王莽伝下
  9. ^ 赤眉を指す
  10. ^ 南陽郡を指す。王莽の新代に改称。
  11. ^ 緑林の反乱軍を指す。
  12. ^ 翟義を指す。
  13. ^ 趙明を指す。
  14. ^ 『後漢書』劉玄劉盆子列伝

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