唐来参和
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唐来 参和(とうらい さんな/さんわ、1744年(延享元年)- 1810年2月28日(文化7年1月25日))は、江戸時代中期から後期に活躍した戯作者、狂歌師である。号は三和とも表記される。本姓は加藤。通称は和泉屋源蔵。別号(狂名)は質草少々、唐来山人等。
経歴・人物
[編集]曲亭馬琴『近世物之本江戸作者部類』によれば、もと高家何某の家臣であったが、天明年間にわけあって町人となり、江戸本所松井町の娼家和泉屋の婿養子になったという[1][2]。浜田義一郎は、安永末期・天明初頭に志水燕十の代作者をしていたと推定している[3]。参和の名での初作は洒落本『三教色』、天明年間中に『大千世界牆の外』『和唐珍解』『莫切自根金生木』『頼光邪魔入』『通町御江戸鼻筋』を刊行している。1789年(寛政元年)『冠言葉七目〓(支+十二)記』『天下一面鏡海鉢』を刊行するが、後者が松平定信の改革を穿つものだったため、絶版処分に遭う。2年間絶筆した後、『善悪邪正大勘定』『再会親子銭独楽』などを刊行。以降、合巻2種を刊行したが、それ以降の出版活動はない。太田南畝の門人であり、狂歌も嗜んだ。
井上ひさしが『戯作者銘々伝』で小説の題材にしたほか、俳優の小沢昭一が1983年~2000年までの18年間、一人芝居で唐来参和の生涯を演じた[4]。
主な著作物
[編集]洒落本
[編集]黄表紙
[編集]- 『大千世界牆の外』- 1784年(天明4年)に刊行。
- 『莫切自根金生木』- 1785年(天明5年)に刊行。読みはきるなのねからかねのなるきで回文となっている。
- 『頼光邪魔入』- 1785年(天明5年)に刊行。
- 『通町御江戸鼻筋』- 1786年(天明6年)に刊行。
- 『冠言葉七目〓(支+十二)記』- 1789年(寛政元年)に刊行。
- 『再会親子銭独楽』- 1793年(寛政5年)に刊行。
- 『善悪邪正大勘定』- 1795年(寛政7年)に刊行。
狂歌集
[編集]- 『狂文宝合記』- 1783年(天明3年)に刊行。
- 『老莱子』- 1784年(天明4年)に刊行。
- 『手拭合』- 1784年(天明4年)跋。
- 『徳和歌後万載集』- 1785年(天明5年)に刊行。
- 『十才子名月詩集』- 1785年(天明5年)に刊行。
- 『吾妻曲狂歌文庫』- 1786年(天明6年)に刊行。