善応院
善応院(ぜんおういん、? - 慶長9年6月29日(1604年7月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。父は荒尾善次。母は荒尾空善の娘。実名は不明。兄弟に荒尾善久、荒尾成房、荒尾隆重。成房と隆重はのちに善応院の次男である池田輝政に仕えた。
生涯
[編集]いつごろかは不明であるが、織田信長の異母兄弟である織田信時の室となる[1]。このとき七条[2](飯尾敏成正室、のちの下間頼龍正室)をもうけた。
その後、信時が自害した際に信長の命により池田恒興と再婚し、恒興の正室となった[3]。
恒興との間に少なくとも、池田元助、池田輝政、池田長吉、池田長政の4人の男子をもうけている[4]。
元亀3年(1572年)、弟の荒尾善久が三方ヶ原の戦いで戦死した。
それより以前、善応院は子供がいない善久のため、息子の池田輝政を養子とする約束をしていたが、荒尾家の一族や家老の反発に合ったため、夫の池田恒興が信長の許可を得てから反対する荒尾家中の元に家臣と共に赴き、謀殺したという[5]。
実際に天正元年(1573年)9月7日、当年10歳の古新丸(輝政)は主君の信長から木田小太郎[6]の跡職を安堵されている[7]。
小牧・長久手の戦いで夫の恒興が戦死した際、姑である養徳院に羽柴秀吉から恒興父子の討ち死にを悼む書状[8]が送られたが、そこでは「御女房衆(善応院)に力をつけるように」と養徳院に善応院を励ますように頼んでいる。
慶長9年(1604年)6月29日、養徳院に先立って死去した[9]。
慶長14年(1609年)12月12日に送られた池田輝政と妻・督姫を呪詛する文書[10]では、「"三左衛門殿(輝政)母"に狐が取り憑き、(祟り殺した後)三左衛門に取り憑いた」と、善応院の死没に絡めて遠まわしに輝政夫妻を脅迫する内容となっている。
脚注
[編集]- ^ 『池田家履歴略記』では織田信勝の室だったとするが、それより成立の早い『寛政重修諸家譜』の池田恒興の養女(七条)の項に、実は信時の娘であることと、母(善応院)が恒興に再嫁した際に養女となったことが明記されている。
- ^ 鳥取市歴史博物館(平成22年12月)『大名 池田家のひろがり(改訂版)』池田家系図
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十三 2018年12月17日閲覧。
- ^ 恒興の娘の母は全員不詳であり、善応院が直接産んだ娘と判明しているのは前述の七条のみである。
- ^ 『池田家履歴略記』
- ^ 木田城主であった荒尾善久のこと。
- ^ 『池田文書』
- ^ 『養徳院宛羽柴秀吉書状 天正一二年 四月一一日』. 林原美術館
- ^ 『池田氏家譜集成』九巻所収『池田家年譜』
- ^ 『歡喜院文書』