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喜入久正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
喜入久正
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文19年(1550年
死没 寛永9年5月19日1632年7月6日
改名 千代万(幼名)→久正→紹嘉(法号)
別名 通称:十郎次郎、大炊介
戒名 岱叟善昌庵主
墓所 鹿児島県霧島市国分の竜昌寺墓地
主君 島津義久義弘家久光久
薩摩藩
氏族 川上氏喜入氏
父母 父:川上久光、養父:喜入忠道
正室:北原兼親
久供久憲川上久信
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喜入 久正(きいれ ひさまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将薩摩藩士。

略歴

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天文19年(1550年)、川上久光の長男として誕生。

喜入季久の弟・忠道天正2年(1574年)に後継ぎの無いまま戦死したため、島津義久の命によりその後継となった。永禄年間に菱刈氏攻めに供をし、国分[1]地頭に任じられた。

慶長4年(1599年)に伊集院忠真庄内の乱を起こすと、久正は島津忠恒の命で上洛し、伏見にいる徳川家康伊集院氏の籠る12の城の地勢図を献上し、また家康の質問に答えて城内の農民の有無等を報告した。その後、忠恒が島津氏の家督を継ぐと老中に就任し、忠恒へ『伊勢物語』を伝授した際は、信国の脇差と白銀50枚、更に50石を賜った。

寛永9年(1632年)、死去。享年83。

脚注

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  1. ^ 現・鹿児島県霧島市)・財部(現・鹿児島県曽於市

出典

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  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)