喜入久正
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文19年(1550年) |
死没 | 寛永9年5月19日(1632年7月6日) |
改名 | 千代万(幼名)→久正→紹嘉(法号) |
別名 | 通称:十郎次郎、大炊介 |
戒名 | 岱叟善昌庵主 |
墓所 | 鹿児島県霧島市国分の竜昌寺墓地 |
主君 | 島津義久→義弘→家久→光久 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 川上氏→喜入氏 |
父母 | 父:川上久光、養父:喜入忠道 |
妻 | 正室:北原兼親娘 |
子 | 久供、久憲、川上久信 |
喜入 久正(きいれ ひさまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩藩士。
略歴
[編集]喜入季久の弟・忠道が天正2年(1574年)に後継ぎの無いまま戦死したため、島津義久の命によりその後継となった。永禄年間に菱刈氏攻めに供をし、国分[1]の地頭に任じられた。
慶長4年(1599年)に伊集院忠真が庄内の乱を起こすと、久正は島津忠恒の命で上洛し、伏見にいる徳川家康へ伊集院氏の籠る12の城の地勢図を献上し、また家康の質問に答えて城内の農民の有無等を報告した。その後、忠恒が島津氏の家督を継ぐと老中に就任し、忠恒へ『伊勢物語』を伝授した際は、信国の脇差と白銀50枚、更に50石を賜った。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)