コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

喜安璡太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
喜安しん太郎から転送)
きやす しんたろう

喜安 璡太郎
生誕 1876年明治9年)1月10日
愛媛県伊予郡恵久美村(松前町恵久美)
死没 1955年昭和30年)12月22日
神奈川県藤沢市鵠沼2724番地(本鵠沼四丁目7番6号)
墓地 東京都文京区伝通院
住居 松山市本郷区丸山新町、高田市小石川区指ヶ谷町、白山御殿町、小立村島原
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京専門学校文学科
職業 新潟県立高田中学校教諭、早稲田実業学校教員
著名な実績英語青年
代表作 『湖畔通信・鵠沼通信』
影響を受けたもの 正岡子規増田藤之助坪内逍遥
影響を与えたもの 相馬御風小川未明丸沢常哉
配偶者 こま
子供 喜安貞雄、喜安俊雄、橋爪春子、喜安三郎、朝比奈秋子
喜安喜市、シヤウ
親戚 喜安健次郎(弟)
テンプレートを表示

喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年明治9年)1月10日 - 1955年昭和30年)12月22日)は戦前日本英語教育者、雑誌編集者。新潟県立高田中学校教諭、早稲田実業学校教員。長年『英語青年』編集を引き受け、引退後は「河畔通信」「鵠沼通信」を連載した。

生涯

[編集]

学生時代

[編集]

1876年(明治9年)1月10日愛媛県伊予郡恵久美村(松前町恵久美)の豪農の長男として生まれた[1]。早く父を喪い、教育熱心な母の下、近所の和尚に四書五経を学んだ[1]。地元の小学校に通い、1886年(明治19年)米湊村の高等小学校に編入した[2]

伯母宅に預けられて松山高等小学校に転校し、『文学之栞』編集に参加した[2]。1889年(明治22年)私立伊予尋常中学校に進学し、1892年(明治25年)卒業した[1]

1893年(明治26年)9月13日東京専門学校専修英語科3年に編入し、9月27日文学科に進学、倫理学を専攻した[1]坪内逍遥から英語教師となることを勧められ、佐伯好郎、今井鉄太郎に指導を受け、1897年(明治30年)7月卒業した[1]。10月本郷区丸山新町27番地の増田藤之助宅に住み込み、『日本英学新誌』の編集を手伝った[1]

現役時代

[編集]

1898年(明治31年)4月坪内逍遥、今井鉄太郎の推薦で早稲田中学校に就職したが、生徒の管理を持て余して2ヶ月で辞任し、雑誌編集の傍ら、神田の英語学校の夜学で教えた[1]

1899年(明治32年)4月坪内逍遥の推薦で新潟県立高田中学校教諭となり、英語主任細川文五郎の下、金子俊郎、相馬御風熊木捨治小川未明丸沢常哉等を教えた[1]

1903年(明治36年)4月早稲田実業学校に、当初小石川区指ヶ谷町7番地に住み、1904年(明治37年)増田宅の隣に移り住んで雑誌編集を手伝い、1905年(明治38年)9月武信由太郎から『英語青年』の編集・経営を引き受けた[1]

1914年(大正3年)小石川区白山御殿町107番地に移った[1]。1918年(大正7年)7月早稲田騒動に絡んで早稲田実業学校を退職した[1]

隠居

[編集]

1944年(昭和19年)3月『英語青年』が研究社『英語研究』と合併され、事業を小酒井五一郎に譲渡し、山梨県南都留郡小立村島原の河口湖畔別荘に疎開した[1]。1945年(昭和20年)5月25日の最後の東京大空襲で自宅が蔵書共々全焼した[3]

1949年(昭和24年)2月次男俊雄宅近くの藤沢市鵠沼2724番地(本鵠沼四丁目7番6号)に隠居した[4]。1951年(昭和26年)眼病で右眼が失明し、左眼もそこひになった[5]。1953年(昭和28年)5月盲腸で手術を受けた[6]。1955年(昭和30年)12月22日午前7時死去し[6]、26日文京区伝通院に葬られた[1]

著書

[編集]
  • サミュエル・スマイルズ 著、英語学研究会 訳『生活術詳解』喜安璡太郎校、中野書店、1903年6月。NDLJP:757436 
  • 熊本謙二郎、喜安璡太郎共編 編『ナショナル第四読本研究 上巻』長風社、1912年10月。 
  • 熊本謙二郎・喜安璡太郎共 編『ナショナル第四読本研究 中巻』長風社、1915年11月。 
    • 熊本謙二郎・喜安璡太郎共 編『ナショナル第四読本研究』(訂正合冊)研究社、1938年6月。 
    • 熊本謙二郎・喜安璡太郎共 編『ナショナル第四読本研究』(訂正合冊)研究社辞書部、1954年5月。 
  • 『ナショナル第五読本研究 上巻』研究社辞書部、1928年9月。 
  • 喜安璡太郎 著、福原麟太郎 編『湖畔通信・鵠沼通信』研究社出版、1972年10月。 

人物

[編集]

学生時代は常に成績優秀で、伊予尋常中学校2年級1学期で高橋龍太郎に次いで2番だったため、2人で3年に編入した[1]。他の同級生には河東碧梧桐山内正瞭、1期上に高浜虚子、1期下に景浦直孝、2期下に水野広徳真鍋嘉一郎がいた[1]

東京専門学校英語科では清滝知隆に次いで2番、文学科では1,2年とも主席、3年は平野履道に次いで2番だった[1]。同学年には繁野天来、古沢典惣、長谷川天渓梅沢和軒がいた[1]

趣味は釣り[6]。好きな食べ物は豆腐と餅[3]

家族

[編集]

父母兄弟

[編集]
  • 父:喜安喜市 – 嘉永6年(1853年)2月生、1939年(昭和14年)5月没[1]
  • 母:喜安シヤウ – 安政2年(1855年)4月生、1932年(昭和7年)12月没。北川原村出身[1]
  • 長妹:岡本トク - 伊予市灘町下駄屋岡本家に嫁いだ[1]
  • 次妹:片山セイ - 松山市弁天町片山家に嫁いだ[1]
  • 長弟:喜安健次郎 - 鉄道省次官[1]。1947年(昭和22年)8月63歳で没[1]
  • 次弟:喜安豊(みのる) - 1950年(昭和25年)4月63歳で没[1]
  • 三妹:野間トキエ - 湯山村上高野蜜柑山経営農家野間家に嫁いだ[1]。1927年(昭和2年)12月37歳で没[1]
  • 三弟:喜安修治 - 日本郵船監査役[1]

妻子

[編集]
  • 妻:喜安こま – 1882年(明治15年)2月18日生[1]。松山市小唐人町二丁目41番地日野冬原四女[1]。1900年(明治33年)8月18日結婚[1]
  • 長男:喜安貞雄 - 1902年(明治35年)8月18日生[1]海軍造機大佐スルザー・ブラザーズ工業事務所技師[1]
  • 次男:喜安俊雄 - 1906年(明治39年)6月13日生[1]王子製紙検査部副部長[1]
  • 長女:橋爪春子 - 1909年(明治42年)2月15日生[1]大阪府中小企業信用保証協会理事長橋爪恭一に嫁いだ[1]
  • 三男:喜安三郎 - 1910年(明治43年)4月13日生[1]帝国音楽学校でバイオリンを学んだが、1945年(昭和20年)1月4日中支で戦死した[1]
  • 次女:朝比奈秋子 - 1912年(大正元年)9月3日生[1]武田薬品工業技術員朝比奈盛一に嫁いだ[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an 上井 1956.
  2. ^ a b 愛媛県 1989.
  3. ^ a b 成田 1956.
  4. ^ 鵠沼に居住した著名人(物故者)動静一覧”. 鵠沼を語る会. 2017年9月9日閲覧。
  5. ^ 佐川 1956.
  6. ^ a b c 喜安 1956.

参考文献

[編集]