喜連村
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きれむら 喜連村 | |
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廃止日 | 1925年4月1日 |
廃止理由 |
編入合併 西成郡・東成郡計17町27村→大阪市 |
現在の自治体 | 大阪市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 大阪府 |
郡 | 東成郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
1,756人 (国勢調査、1920年) |
隣接自治体 | 瓜破村、長吉村、東成郡平野郷町、南百済村、中河内郡矢田村 |
喜連村役場 | |
所在地 | 大阪府東成郡喜連村 |
座標 | 北緯34度36分38秒 東経135度32分54秒 / 北緯34.61061度 東経135.54842度座標: 北緯34度36分38秒 東経135度32分54秒 / 北緯34.61061度 東経135.54842度 |
ウィキプロジェクト |
歴史
[編集]村名は古代に中国から集団移住した人々を表す「伎人」「久礼」「呉」(くれ)の転訛とされ[1]、古代の伎人郷(くれのごう)に比定されている。
地内にある如願寺によると「住吉の東一里許に喜連村というあり、河内の堺なり。昔は河内に属して万葉に河内国伎人郷とある処なるを久礼(くれ)を訛って喜連というなり」と『古事記伝』にも言及されている古い地名である[2]。
中世には喜連は如願寺を中心とする環濠集落であり、全体で喜連城と呼ばれる城郭を構成していた。集落の中央を南北に中高野街道が貫いている。環濠は高度成長期に埋められたが、環濠を渡って集落に入る入り口だった場所に今も地蔵堂が立つ。
沿革
[編集]- 1620年(元和6年) - 住吉郡喜連村が東喜連村、中喜連村、西喜連村に分村。
- 1872年(明治5年) - 住吉郡東喜連村、中喜連村、西喜連村が合併して、再び喜連村となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 住吉郡喜連村単独で町村制施行。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡の統廃合により、所属郡が東成郡に変更。
- 1925年(大正14年)4月1日 - 大阪市に編入され、住吉区の一部となる。同日喜連村廃止。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 分区により、旧村域が東住吉区の一部となる。
- 1974年(昭和49年)7月22日 - 分区により、旧村域が平野区の一部となる。
交通
[編集]鉄道路線
[編集]現在は旧村域にOsaka Metro谷町線の喜連瓜破駅が所在するが、当時は未開業。
道路
[編集]現在は旧村域を阪神高速14号松原線が通過するが、当時は未開通。
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典 27 大阪府
- 谷川彰英『47都道府県・地名由来百科』丸善出版、2015年。ISBN 978-4-621-08761-9。