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四井主馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戦国時代の人物 (日本) > 忍者 > 歴史上の忍者 > 四井主馬

四井 主馬(よつい しゅめ、生没年不詳)は、戦国時代安土桃山時代忍者(初代)[1] 。安土桃山時代、江戸時代初期の加賀藩富山藩(二代)。四井は「しい」とも読む。

初め甲斐国武田氏に仕えていたとされ[要出典]、後に加賀国の前田利家に仕え、加賀忍軍を率いていたという[2]。 天正13年(1585年)2月村井長頼に従い加賀・越中国境沿いの蓮沼城を攻めている[3]関ケ原では大聖寺城落城の際に利長の命により城内に火を放ち、後に前田利政に西軍の人質となっている利政室(蒲生氏郷の娘)の救出を命じられ、大坂に赴いたという[4] 。その後主馬が利政室を救出したとの記述は無く、結局利政は七尾から動かず西軍に味方したとされて改易になった。 なお、加賀忍軍は、大坂の陣終結後に解散されたとされるが、徳川方の警戒を解くための偽情報とも言われており、事実は定かではない[要出典]

子の四井喜兵衛は利政の伏見在番衆として名前が見え[5]、元和侍帳では四井喜兵衛 百石と記され、御馬廻衆に属した。 その後父と同様に主馬を名乗った事が「寛永四年侍帳」に見える。寛永14年(1637年)本多政重横山長知から、江戸金沢間の伝馬の賃金見積りを通知されている[6]。 同16年(1639年)前田利次の富山立藩に従い、30石を加増された[7]。承応4年(1655年)越中婦負郡内から年貢が納入され、主馬に23石が支給された記録が残る[8]。 二代藩主正甫の分限帳に四井氏の名前は見えず、絶家となった[9]

登場する作品

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脚注

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  1. ^ 『末森記』に、村井山崎計(はかり)にて四井主馬と云ひし夜盗(忍者)引具し、という記述がある。『末森記』P422、『前田家戦記集』P32.
  2. ^ 『荒山合戦記』に伊賀忍衆の偸組(ぬすみぐみ)が不動寺に火を放ったことが記されているが、四井主馬の名前は無い。『荒山合戦記』P404、『前田家戦記集』P13.
  3. ^ 『末森記』P422、『前田家戦記集』P32.
  4. ^ 『浅井畷軍記』、『前田家戦記集』P77.
  5. ^ 慶長3年9月25日(前田)利政判物 伏見番交名(三輪伝書)、『新修七尾市史3 武士編』P175~176.
  6. ^ 寛永14年3月14日中村新左衛門、原田又右衛門、副田権左衛門、四井主馬宛本多安房守(政重)横山山城守(長知)連署状『金沢市史 資料編6 近世四』P67~68.
  7. ^ 「御分国之砌御家中禄高帖」、『越中資料集成1』P4.
  8. ^ 承応4年4月21日婦負郡内長沼村百姓中宛 前田利次判物、『越中資料集成9』P446.
  9. ^ 「貞享3年富山藩武鑑」、「元禄3年正甫公分限帳」、『越中資料集成1』

参考文献

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