四辻与津子
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四辻 与津子(よつつじ よつこ、生年不詳[1] - 寛永15年12月6日[2](1639年1月9日))は、江戸時代初期の女性。後水尾天皇の典侍。父は正二位権大納言四辻公遠。女房名、出仕名は御よつ御寮人、大納言典侍、また一位局。院号は明鏡院。姉に上杉景勝側室(定勝生母)桂岩院。兄に鷲尾隆尚・四辻季継・猪熊教利ら。
はじめ新上東門院に仕え綾小路と称したが、元和4年(1618年)ごろに後水尾天皇に出仕し典侍となり、賀茂宮(夭逝)、文智女王(梅宮)の1男1女を生む。
東福門院徳川和子が後水尾天皇の中宮として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放され(およつ御寮人事件)、程なく落飾して明鏡院と称し嵯峨に隠棲したといわれる。墓所は四辻家菩提寺の京都興聖寺[3]および円照寺。法号は明鏡院殿一物素有無大姉[要出典]。甥の上杉定勝は、志駄義繁(志駄義秀嫡男)を使者として、高野山清浄心院で追福供養を行っている[4]。