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図師民嘉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

図師 民嘉(ずし みんか、安政元年10月4日1854年11月23日[1] - 大正11年(1922年7月1日[1])は、明治日本鉄道官僚鉄道院計理部長などを歴任し、鉄道経理の確立を行った。

来歴・人物

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鹿児島市潮見町で生まれ[1]商法講習所(現一橋大学)で学んだ[2]。1873年外務省入省[1]。1876年から1878年までアメリカ合衆国経理を学び、帰国後第五国立銀行入行[1]

1879年に工部省権少書記官任官以来[1]会計事務に従事し[3]日本における鉄道経理の確立を行った[4]

1884年鉄道局少書記官[1]。1885年逓信省鉄道事務官[1]。1890年鉄道局会計課長[1]。1893年鉄道庁第三部長心得[1]。同年逓信省計理課長[1]

1897年鉄道作業局計理部長[1]。1901年叙勲四等瑞宝章受章[3]。1903年叙従四位[3]。1906年臨時鉄道国有準備局第三課長[1]。同年叙勲三等旭日中綬章受章[3]

1908年鉄道院理事・計理部長[1]。同年の申酉事件では、成瀬隆蔵村瀬春雄八十島親徳宮川久次郎と大学問題実行委員に就任。母校東京高等商業学校(現一橋大学)防衛に尽力した[5]

1909年に依願退官し[1]正四位に叙され[3]帝国鉄道協会理事に就任[1]。1910年台湾製糖取締役[3]。1911年朝日護謨社長[3]。1922年に病気で危篤となり従三位に叙され[3]、同年死去した[1]

親族

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妻の佐用は江戸幕府奥医師林洞海の娘[6]建築家図師嘉彦は次男[4]。三女の豊子は陸軍元帥川村景明子爵の次男弘の妻[7]

著作

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  • 『簿記法原理』甘泉堂 1886年
  • 『簿記法原理 校正2版』山中録 1888年
  • 『物品会計論』丸善 1894年
  • 『簿記法原理(復刻叢書. 簿記ことはじめ ; 第2期)』雄松堂書店 1981年

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 鉄道辞典_補遺版公益財団法人 交通協力会
  2. ^ 会計史に関する海野力太郎の第二の論稿 :『實用簿記法』(1899)中の「簿記法の起源」をめぐって国士舘大学経営論叢 第6巻 第2号 [通巻第10号]
  3. ^ a b c d e f g h 図師民嘉特旨叙位ノ件叙位裁可書・大正十一年・叙位巻十八
  4. ^ a b 銀座5丁目尾張町「ライオンビヤホール」(1939年)とその壁画 : 建築家・図師嘉彦の言説を手がかりとして藝叢 : 筑波大学芸術学研究誌 30
  5. ^ 16)大学問題委員報告会東京高等商業学校同窓会々誌五四号(明治四十年十月)
  6. ^ 林洞海・研海 父と子の理念望月洋子、日本医史学雑誌第49巻第4号(2003)
  7. ^ 我観郷国 : 一名・現代薩摩の人物及郷国