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国司就信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
国司就信
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 文禄元年12月29日1593年1月31日
改名 国司就信→国司雅楽入道
別名 通称:四郎三郎、号:友甫
官位 雅楽允、対馬
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 高階姓高氏庶流国司氏
父母 父:国司元保
元信
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国司 就信(くにし なりのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。

生涯

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毛利氏の譜代家臣である国司元保(新右衛門、左馬允、右衛門、筑後守)の子として生まれる。大永4年(1524年12月16日毛利元就烏帽子親として元服し、「就」の偏諱を与えられて「就信」と名乗った。

天文6年(1537年)から天文9年(1540年)にかけて毛利隆元大内義隆の人質として山口に滞在した際、就信も父と共に従った。この時の功で、天文11年(1542年)閏3月に隆元から安芸国安芸郡牛田にて1町6段の地を宛行われる。さらに、永禄6年(1563年6月5日に隆元から安芸国佐西郡友田と山里の内の児玉元村上表の地15石、永禄9年(1566年4月20日には元就から周防国吉敷郡において湯田などの60貫余り、永禄11年(1568年3月10日には元就と毛利輝元から安芸国上品地山根名1町9段を宛行われた。

永禄12年(1569年8月22日には井上元直と共に北九州所帯裁判奉行に任じられ、元亀元年(1570年)からは長門国と周防国の段銭奉行を務める。また、元亀2年(1571年)には黒川著保佐藤元実と共に長門国且山城の普請を行っていたが、同年6月14日に元就が死去すると、輝元の命によって一時長門国から安芸国吉田郡山城に帰還し、元就の葬儀に参列した。

天正8年(1580年12月13日、周防国吉敷郡白松の内の吉見氏領15石と、吉敷郡山口の国清寺領内にかつて就信が住んでいた屋敷分の畠6段を与えられ、天正11年(1583年)には大内義隆33回忌法会の執行を命じられた。また、天正12年(1584年3月25日には長門国豊浦郡安岡流鏑馬田30石の内の15石を与えられて流鏑馬役を務め、天正16年(1588年)から始まる毛利氏の惣国検地によって同年6月17日に長門国美祢郡長田などで60石9斗余を宛行われる。

文禄元年(1592年12月29日に死去。子の元信が後を継いだ。

参考文献

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