米津寺
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(圓通山米津禪寺から転送)
米津寺 | |
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所在地 | 東京都東久留米市幸町4-2-40 |
位置 | 北緯35度45分25.8秒 東経139度31分2.4秒 / 北緯35.757167度 東経139.517333度座標: 北緯35度45分25.8秒 東経139度31分2.4秒 / 北緯35.757167度 東経139.517333度 |
山号 | 円通山[1] |
宗旨 | 臨済宗[1] |
宗派 | 妙心寺派[1] |
寺格 | 総本山、別格本山など |
本尊 | 阿弥陀如来、釈迦如来など |
開山 |
大愚禅師(1669年没) 寛文9年7月16日[1] |
開基 | 米津出羽守田盛[2] |
正式名 | 圓通山米津禅寺 |
札所等 | 東久留米七福神(布袋尊)[3] |
法人番号 | 9012705000455 |
米津寺(べいしんじ)は、東京都東久留米市にある臨済宗妙心寺の寺院である。
歴史
[編集]慶長8年(1603年)、徳川家康の江戸入府に伴い、三河の家臣団が江戸に移住してきた。その中に米津(よねきつ)氏がいた。米津氏は寛文6年(1666年)以降、一万石余の大名に昇格しており、小さな大名とはいえ東久留米市域とは深いつながりを持っていた。米津寺は、萬治2年(1659年)、開山を大愚(だいぐ)和尚、開基を二代目・米津田盛(たもり)とし、米津家の菩提寺として建立された、禅宗臨済派京都妙心寺の末寺である。この寺は米津家一氏のみが檀家となった寺であり、米津家初代・田政(たまさ)の子、二代目・田盛(たもり)、四代目・政矩(まさのり)、六代目・政崇(まさたか)、八代目・政懿(まさよし)の墓地がある[4]。
後北条の流れを汲む浄牧院(大門町1丁目)に対して、徳川幕府から知行地を与えられた米津家は、監視の役割を担っていたという歴史的評価も生まれている。田政があるとき浄牧院に駕籠で乗りつけたとき住職が烈火のごとく怒り田政を門外に追い返したという伝説がある[5]。
明治22年(1889年)の火災により楼門以外の全てを焼失、残された楼門は1895年に武蔵国分寺に移設され、国分寺市の重要有形文化財となっている[6][7]。後年に一般の檀家を迎えることとなり、境内の整備も進んでいる。
境内
[編集]市指定有形文化財等。
- 米津寺開山大愚和尚肖像画
- 承応2年(1653年)の記銘がある作者不明の肖像画である。保存状態が良く、美術的にもすぐれた作品である。絹本彩色。縦100cm、横40cm。市指定有形文化財である。(出典:市教育委員会発行「東久留米の江戸時代―文化財からみた東久留米の村々」)
- 十六神将図
- 徳川家康を中心とした16人の将軍を描いた絵図があり、服部半蔵、本多忠勝などの中に米津忠政がいる。[10]
- 大名墓所
- 本堂の裏手にある米津家墓所は多摩地区で唯一の大名墓所であり、東京都の史跡に指定されている。この墓所には2代田盛、4代政矩、6代政崇、8代政よしの四代とその親族の墓標および供養塔がある。墓標の形式は笠付き六角塔身型とでもいうべきもので、大名の墓所としてはほかに例がないとされている[11]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 東久留米市教育委員会『文化財資料集-寺社建築・美術編-』東久留米市教育委員会,1978,p.32,
- ^ 平野勝『多摩の古社寺305』けやき出版,2000,p.48
- ^ 大法輪閣編集部『全国霊場巡拝事典』大法輪閣、2005年、413-414頁。ISBN 4-8046-1216-5。
- ^ 東久留米市史編纂委員会『東久留米市史』東久留米市, 1979,pp.465-467
- ^ 記念誌発刊編集委員会『東久留米市郷土研究会会誌創刊20周年記念誌「ふるさと東久留米」』東久留米市郷土研究会,1995,p.227
- ^ 国分寺楼門(国分寺市サイト)
- ^ 東久留米市史編纂委員会『東久留米市史』東久留米市, 1979,p.466
- ^ 東久留米教育委員会文化課『東久留米市文化財資料集(7)石仏編』東久留米市教育委員会,1979,pp.72-73,
- ^ 記念誌発刊編集委員会『記念誌ふるさと東久留米』東久留米市郷土研究会,1995,pp.47-48,
- ^ 岡田芳朗『東久留米の江戸時代―文化財からみた東久留米の村々』東久留米市教育委員,2005,p.53,
- ^ 東久留米市教育委員会『くるめの文化財第12号』東久留米市,1996,p.2