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土井利往

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
土井利徃から転送)

土井 利往(どい としゆき、宝暦4年(1754年) - 没年不明)は、江戸時代後期の幕臣有職故実家通称は定次郎、主税[1]

寛政重修諸家譜』において実名は「利徃」の字体で記されている[1][2][注釈 1]

生涯

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400石[注釈 2]旗本・土井利意(のちに新番組頭)の子として生まれる。明和8年(1771年)3月25日、徳川家治御目見[1]安永7年(1778年)7月19日より西の丸御書院番士、寛政2年(1790年)4月2日より本丸勤務[1]。この年正月27日に父が没しており[1]、5月4日に相続が認められる[1]

日置流弓術に優れ[3]、射術や「水馬の術」をしばしば将軍に披露して時服や黄金を与えられている[1]伊勢流中興の祖・伊勢貞丈の孫である伊勢貞春から伊勢流武家故実を学び[3]、多くの書を著した。

門弟に窪田清音[4]藤川整斎がいる[5][6]

著作

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  • 『今川家射儀抄』
  • 『馬並馬具之図』
  • 『刀脇差名品』
  • 『弓術或問』
  • 『弓制書弓袋之式』
  • 『極秘古伝小笠原流註解』
  • 『故実秘抄』
  • 『故実目安』
  • 『差矢問答』
  • 『武射器制』
  • 『矢羽文考追考』
  • 『弓矢進退記』

系譜

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利往の家は、徳川秀忠の乳母であった初台局(柴山氏。土井昌勝[注釈 3]の妻)所縁の家である[8]。正勝と初台局の娘である梅園局[注釈 4]を娶って婿養子となった吉次は、名字を柴山に改めた。吉次の子である柴山正信の死後、500石の知行は長男の正次(300石)と二男の利朝(200石)に分割された。利往の家は利朝の系統で、利往の祖父にあたる利道の代に名字を土井に復している[8][注釈 5]

  • 父:土井利意[1]
  • 母:大屋信行の娘[1]
  • 妻:戸田由相の娘[1]
  • 子:土井利恒(利往から引き継ぎ、藤川整斎に伊勢流武家故実を指導している)

脚注

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注釈

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  1. ^ 」は「往」の異体字
  2. ^ 知行地200石・蔵米200俵[1]
  3. ^ 土井昌勝は土井利勝の弟とされる[7]。『寛政重修諸家譜』では利勝系と昌勝系の土井家の系譜を清和源氏土岐氏支流として連続して(巻第二百九十八から巻第二百九十九にかけて)掲げているものの、利勝と昌勝の関係は明記されていない。
  4. ^ 正春院[8]正春寺参照。
  5. ^ 正次系ものちに名字を土井に復している。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十八「土井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.622
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十八「土井」、国立公文書館蔵『寛政重修諸家譜』原本 62/66コマ。
  3. ^ a b 屋代弘賢『古今要覧稿』第二、国書刊行会、1906年、p.248
  4. ^ 石岡久夫『兵法者の生活』第六章.幕末兵法武道家の生涯 三.窪田清音の業績、雄山閣、1981年、p.221-229。
  5. ^ 笹間良彦『日本甲冑大鑑』五月書房、1987年、p.1129
  6. ^ 吉川準 編『松原佐久翁』1910年
  7. ^ 地名の由来”. 2024年10月25日閲覧。
  8. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十八「土井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.619