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土居通芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
どい みちよし
土居 通芳
土居 通芳
土居通芳(右)と高倉みゆき(左)、(1958年)
別名義 北 一郎 (きた いちろう)
生年月日 (1926-12-09) 1926年12月9日
没年月日 (1975-03-16) 1975年3月16日(48歳没)
出生地 東京府
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画テレビ映画
活動期間 1954年 - 1975年
活動内容 1954年 チーフ助監督
1958年 監督昇進
1961年 新東宝倒産
1962年 テレビ映画に参入
1975年 死去
配偶者 芝田良子 (1958年-1975年)[1]
主な作品
地平線がぎらぎらっ

日本怪談劇場
大忠臣蔵
荒野の素浪人
荒野の用心棒
破れ傘刀舟悪人狩り
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土居 通芳(どい みちよし[2]1926年12月9日 - 1975年3月16日)は、日本の映画監督脚本家である。脚本執筆時のペンネームは北 一郎(きた いちろう)。シャンソン歌手の石井好子は義姉(土居の兄の妻)。仲間内からはツーホーさんの愛称で親しまれた。

人物・来歴

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1926年(大正15年)12月9日東京に生まれる[3]

1948年(昭和23年)、上智大学経済学部を卒業後、新東宝に入社、助監督となる。おもに阿部豊渡辺邦男に師事し、1954年(昭和29年)チーフ助監督となるかたわら、脚本も執筆する。

1958年(昭和33年)、監督に昇進、高倉みゆき主演の『不如帰』で映画監督としてデビューする。土居は大蔵貢社長の大のお気に入り監督で、デビュー作でいきなりカラー・シネスコ大作の担当となった。その後も土居と高倉のコンビ作が多作され、周囲にはやっかみの声もあったという[4]。土居と親しかったという赤坂長義は、土居は「天才的に世渡りがウマイです」と語っている[5]。新東宝では12本を監督した。

1962年(昭和37年)、『嫉妬』を監督した後、テレビ映画に参入した。

1973年(昭和48年)に砂塚秀夫企画・製作・主演の映画『毘沙門天慕情』を監督し、東宝配給で公開されたのが、劇場用映画の最後の作品となった。

1975年(昭和50年)3月16日、死去した。満48歳没。義姉の石井好子によれば病床で「次は空海を撮りたい」と語っていたという。当初葬儀は身内だけで慎ましく行う予定だったが、実際は葬儀委員長に三船敏郎、友人総代・萬屋錦之介、司会・桂小金治という顔ぶれが並び、故人の人望が偲ばれる盛大な葬儀になったという。遺作は、死の約1ヶ月後に放送されたテレビ時代劇『破れ傘刀舟悪人狩り』(NET系)第30話「ささやいた死美人」。

夫人は新東宝の女優(第三期スターレット)だった芝田良子[6]

フィルモグラフィ

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特筆以外すべて監督

新東宝時代

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1960年代

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1970年代

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  1. ^ 「連載ドキュメント「幻の新東宝・大蔵時代」」『映画芸術』no.330 10月号、映画芸術新社、9-15、62頁。 
  2. ^ 物故会員名簿土居通芳日本映画監督協会、2009年9月14日閲覧。
  3. ^ 土居通芳 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年8月16日閲覧。
  4. ^ 『幻の怪談映画を追って』(洋泉社)
  5. ^ 映画芸術 1979, p. 66
  6. ^ 映画芸術 1979, pp. 60, 62

外部リンク

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