土山宗次郎
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元文5年(1740年) |
死没 | 天明7年12月5日(1788年1月12日) |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家治 |
氏族 | 土山氏 |
父母 | 土山孝祖、土山照苗娘 |
妻 | 日下部七十郎娘 |
土山 宗次郎(つちやま そうじろう)は、江戸時代中期の旗本。名は孝之(たかゆき)。
生涯
[編集]土山孝祖の子として誕生、母は土山照苗の娘。妻は日下部七十郎の娘。
田沼意次が老中となって田沼時代が始まると、安永5年(1776年)に勘定組頭に登用された。天明3年(1783年)に工藤平助の『赤蝦夷風説考』を読んで対ロシア政策の必要性を提言し、天明4年(1784年)に平秩東作と荒井庄十郎に蝦夷地調査をさせ[注釈 1]、さらに天明5年(1785年)には上役の松本秀持が青島政教を始め、山口高品、菴原宣方、佐藤行信、皆川秀道、里見平蔵、引佐新兵衛、大塚小一郎、大石逸平、鈴木清七、最上徳内らに蝦夷地調査を行わせた[1]。
その一方で、吉原・大文字屋の遊女、誰が袖を祝儀などを含めると1200両を払い身請けしたことで派手な生活ぶりが評判となり、親交のあった大田南畝から、狂歌で「我恋は天水桶の水なれや。屋根よりたかきうき名にぞ立つ」と詠まれた[2]。
天明6年(1786年)8月、10代将軍・徳川家治が死去し、松平定信ら反田沼派が台頭すると、意次は老中職を罷免させられた。同年11月に富士見御宝蔵番頭となる。その後、買米金500両の横領が発覚し、その追及を逃れるため逐電し、平秩東作に武蔵国所沢の山口観音に匿われたが、発見され、天明7年(1787年)12月5日、斬首に処された。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 賀川隆行『日本の歴史11 崩れゆく鎖国』集英社、1992年7月。ISBN 4-08-195014-8。
- 河原芳嗣『江戸の旗本たち―墓碑銘をたずねて』アグネ情報センター、1997年7月。ISBN 978-4750708607。